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レビュー:刈谷博展「ひとつの/そして/無数に偏在する/それ」
確かに筆者である「私」はこの展覧会が開催されたミヅマアートギャラリーの空間に2度足を踏み入れた。しかしその時「私」は一体どこに存在していたのだろう?こんなことを考えてしまうのは、この展示を見ることが、細部は多くの同サイズの小品から構成されながらも優れて全空間的な経験だったからである。そしてその空間は単なる一つ一つの作品の和とは次元を異にしたものだったのである。 刈谷博が1984年から豆粒に書き続けているという「the now is」という英語の言葉を筆者なりに考えてみたい。「the」という指示代名詞によって固有化された「now」今という瞬間の運動が「is」空間的に存在する。この言葉が示しているのは切断された時間であり、時間の空間化のことではないだろうか。20紀以降の美術史は時間の次元に表現の領域を拡大してきた歴史とも言えよう。例えばジャクソン・ポロックの抽象表現主義絵画には彼のアクション・ペインティングに伴った時間の痕跡も塗り込められている。その時間はあくまでも持続する有機的な時間である。しかし刈谷の展示空間から感じる時間は逆に無機的な時間である