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BIO   2022  THE NOW IS     寿限無寿限無

Private Collection, Canada

^ FS 10/1998

Face Sutra 3_1999

^ FS 3/1999

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^ FS 4/1999

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^ FS 1/2000

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^ FS 2/2000-1

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^ FS 2/2000-2

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^ FS 5/2000

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^ FS 7/2000

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^ FS 1/2001

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^ FS 8/2002

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^ FS 1/2003-1

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^ FS 1/2003-2

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^ FS 5/2003-1

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^ FS 5/2003

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^ MIZUMA ART GALLERY

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^ FS ON CANVAS

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^ FS2016/10/31 CANVAS 12"x12"

ABOUT
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^ FS2003/11 CANVAS 12"x12"

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^ FS2003/10 CANVAS 12"x9"

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^ FS2001/02 CANVAS 6"x4"

ABOUT

It's All About The One Piece

Kariya owns "the now is", which is the keyword for all his works. 

He focuses on what the essence of what he thinks came from. 

He concentrates his thoughts on wondering what the torii (gate) that came through this material world was. That is what he is aware of, and what he is aware of is what he focuses on. And it's about millions and trillions of other things that make up our actions. 

Applying this law of thinking, Kariya owns "the now is", and at the same time "the now is" owns everything that surrounds Kariya. Kariya introduces this law into every corner of the artistic production system.

His art is the story about that one phrase what it tells, when it shows, why it reveals, who it speaks, which it goes, and how it speaks. It is about the appearances through with the materials, objects, subjects, occasions, places, times, chances, changes, choices, and on. 

 

The composition is about the reference to its each meaning of each word what it stands to what. It is to focus “THE”, to proceed “NOW, and to appears “IS”. Then, "IS” becomes reference to “NOW”, and so on. It is to contemplate beyond his physical writings to focus.

It links to its composition how it produced to get this life with all events, objects, bits and pieces, people, and else.

 

While trillions of others proceed his writing follows as is together, simultaneously. Three words convey a sense of immediacy and the present tense, in which Kariya experiences the presence is creation of each work.

 

This work “Seed Sutra,” presented in this exhibition, is comprised of numerous small fragments of seeds that the artist has marked his signature writings, daily. Kariya began working on this series in 1984 and has continued production on it ever since, with many interim pauses. The total work is believed to now amount of 1,051,188 pieces, as of 12/31/2018.

MOMA PS1Kariya has exhibited early year at the "Sound Show, special project: Meditation" 1979. Exit Art "Sutra", 1989. ICA Philadelphia "Sutra: One thing in everything: everything in one thing", 1990, then follows various other museums and galleries.

 "Sutra", sanskrit; meaning literally thread or string (to bind the pages of book), sacred code or measuring line.

GALLERY
日本語

ABOUT

「ひとつの/無数に遍在する/それ」

 刈谷は、1977年の渡米以来「the now is」を多種多様な媒体に記述する作品を制作している。一日一握りの種子(豆粒)に「the now is」という三位一体の言葉を書き込んでいくという今回の作品「種子経」は、1984年から制作が開始され、初期は数度の中断もあるが続けられてきた。

 注:種子への記述は2021年12月30日現在1,158,585粒。

 彼独自の経である「the now is」という言葉について刈谷は「the now is」とは「be here now」という有限のそれではない、と断言します。

 

 「the now is」の三文字の構造は「意識、現象、存在」三文字の一言一言がそれぞれの意味を補完し合い説明しつづける円環の運動を表している。その運動とは我々の住む物質世界の一つ一つの生命がお互いの意味を補完し合う構造である。連続して無限に連関し合い共鳴する現実、時空など存在しない、われわれの心の在に発し、そこに生きつづけるイメージなのです。

 だが、目がさめると「それ」がやってくる、生をまた「繰り返し」「楽しむ」「である」。「生」の繰り返しは写経です。実は私には「その現在である」はイリュージョンなのです。「だが、しかし、そうではない」を繰り返し、お経「the now is」の物性世界を「楽しむ」というメッセージなのです。

目を覚まし、息(生き)始めたら波動を楽しむという。

 刈谷の写経は、刹那としての「今」を確認する作業ではなく、「今」とは永遠の「在」いま、輪廻転生概念の先の意識、その心意蘇りへの実践だと云います。自身物性存在を意識し感謝する、外の世界と内の意識との統合を祈り刻む、ともいえる彼の作品は、明日何が起こるかわからない外側の世界で生きる私たちに、安堵感を持って響くのではないでしょうか。刈谷にとって祈りとは、心の奥に潜む神に意をイメージすること「無数に偏在することごとくの、ひとつを生している波動」を奏でることだと云います。

 

東京アートビート *作家注釈4/2018

 

It Is All About The One Piece,

And Millions of Others

「ひとつの/無数に遍在する/それ」


 今回の作品のテーマは作品を透明な概念に見立てて設定されている。媒体は透明板で裏側がある。裏側は表面に対するものとして定着されていない、差し替えが可能な状況設定のイリュージョンを隠蔽する装置である。

 人間はアプリオリ(刻み込まれた固定概念情報=先入観)によってモノを見るという操作方式が習得されている。そのアプリオリを背景に、そこに見るイリュージョンが現実である。真実であると信じ込む=見なす(それが表面として読み取られる)のである。信じ込みが現実化する仕組みである。

 作品はその見え方の習性というグリッドを、透明板の後ろに配置してあるという装置である。表面は実は、変化しないもの、それ以外のコトを含まない面であるはずなのだが、そうは見させられないはずだ。透けてみえる裏側という背景に制作手順の垢「時の刻」が刻まれてあるからだ。観客は表面を構成する背景を頼りに面の表「おもて」を読み取るのである。表面性の成立である。真実はその裏側の設定に依存されている。だがその仕組みに気付かされず、見え方の表面を真実と読ませられるのである。(知る人は知る)

 作品は、このからくり、観客自身のアプリオリの存在前提を問いかける装置を提示している。それらの装置は異なる視点を提示する表面なのである。

だが?しかし、はてさて、これが、アプリオリになるとしても、それは、読まれる必要を求めているものでもない。加えても、それは作家も含む観察者の勝手気ままな果てしなく透明で無限にある視点へ誘う風景なのである。

 今作品は「種子経」シリーズの流れから写経のあり方を展示法の設定として採用している。


 制作プロセスの上では作品とはひとつの製作作業の原風景の場である。
ひとつひとつの作品は即興的な方法で制作され感性を伴なう生活行為の直接行為の風景画である。部分の不完全なイメージは全体を構成する機能であり個人表現の不可欠生態形の痕跡として採用されてある。ぶっつけ本番の思いつき迷いの痕跡の説明図である。過ち、ヤリ直し、修正、くり返しのシミに観客は出会う類である。近づいて目を凝らして見えるものについてはそうである。全体から展望する一点一点の作品断片は単なる絵画のシミ、滴りとして見られる絵画である。

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インスタレーション
 

画廊入り口

 


 「横長バナー」

 先ず画廊最初の入り口脇に大画面横長に引き伸ばされた写真記事を元にしたバナーが展示してある。アフガニスタンの相次ぐ米軍の爆撃で殺された遺体がチャリカー村民たちの前に置かれ、お祈りしている写真映像である。バナー横には額縁に収まった元記事作品が配置されている。そして顔が切り取られ、数字が施された作品は画廊の横壁に配列された「顔経」のイメージへと誘っている。

 作品「種子経」
 主画廊入り口に進入すると、手の平を拡げた四角の透明板に貼られた点画のような平面から始まる。(3〜6点の1999年代初期の頃の顔経作品)

 一点に近づき、集中し、よく見ると透明板に文字が書かれた模様のようにも見える豆粒の群が、透けた裏側に文字がビッシリ刻まれている、壁画のようなイメージを背景に浮かんでいるような表面である。
 同じように文字が書かれた種か豆粒のようなものは直接透明板に貼られている。その裏側は透明板を挟んで透けて見える。
関連性がありそうでなさそうな背景は差し替えなのだろうか?置き換えができそうな?謎々のようなものである。


 

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左側の壁、通路を挟んで右側の壁


 先ず左横の壁面には同間隔で縦に十列、横に三列、豆粒大・中・小のサイズが入り混じる顔が乗った透明板の点画が並んでいる。これらは観客自身の認知できる顔探しの衝動から始まるかも知れない。そして、彼らの表情や向き、目の方向や配置に物語を走らすかも知れない。それらは、継ぎ足されたペーパータオルのような、浮き出しの紙に、穴が空いてたり、豆粒大の型取り、文字、記号、矢印、数字などが入った裏側が背景として設定されている。

 もう一つの部屋に向かう相対する壁には、穴の空いた板状のものが交互に縦に並んでいる。その穴は向こう側のイメージを通している。それらの穴の見え方は、もう一つの小さな窓のようにも見えてくるかも知れない。その為の穴なのか、点滅するモノクロ的色彩や謎のイメージが混在するのである。謎に答えるのは観客の潜在性・アプリオリに基づくイリュージョン、さもなくば意味ありげな単なる穴あきの画像である。

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正面に相対する壁

 正面相対する壁に68枚の大小異なる折り重なった透明板の上にうねりくねった途切れ途切れの点線をイメージさせる一本の連続する線が飛び込んでくる。
それは神代文字の「いろは」に似たうねりである。近づくとそれらは、例の種子の群である。部分のそれは、特定のルールで配置され、バラバラ、くっつけたり、構築的だったりの表情である。


 薄く透明な膜の背後に、トレーシングペーパーのドローイングが透けて見えている。部分でみるそれらは相対する壁の80点の点描画のスケールを変えたズームアップでもあり、ひとまとめにも見えてくる。
白で消されたり、書き加えや書き直し、番号などがそのままという形で残されている。これらの落書きのようなシミ、そばかすのような痕跡そのままは、制作作業現場の注意書き、支持表示や個人的メモの類の「裏方のもの」。


 これらは通常は表には出さない隠したり、隠されるものである。
子供が土足で清められた場を無邪気に走り抜ける現実の無作法をのぞかせるこの手法は…何を語るのだろうか。もっぱらが、表には出ない、顧みられることのない言葉やその時限りの線や矢印、丸囲いたちへの打ち捨てられる見えない存在霊への鎮魂なのだろう…。*「これらは、世界存在とのバランスの返還イメージによる返例なのである。宇宙のバランスから始まっているのであるから、その運動に還元組み込まれるイメージの実践なのである。」*作家

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正面の壁


 正面の壁
 横に8列、縦に10列並べられたその一点一点はシリーズとして連続している。遠くから見ると図像のドローイングのように見え、近づくと盲人が読む点字にも見えるかも知れない。もっと近づくと、ソレらの種子は様々な法則で置かれ、数えることが目的の線、順番の修正、統計、丸囲いに四角、重なり、矢じるし、数字、記号やらが、自由奔放に、文字封印された種子が引っ付いている。透明な表面の裏側に幾何学的図形、デタラメ図、素描なぐり書き、図面のような、メモ、およそあらゆる可能な裏地が透けて見える。ソレらは表面の透明な板を挟んで置かれているという設定である。裏側は何にでも変えられ、裏側が無ければ透けた壁の色、その構造を示す設定が相対する壁に見つかるであろう。それらは一つの側面としての見え方なのである。穴さえもが捏造である、暗示でさえも、創造という名のでっち上げ、イリュージョンでさえもが。

 

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小さな部屋の壁


 そして小さな部屋の壁
 メインギャラリーの間を通過して左手の部屋。ここには三方の壁一列に、大小異なるサイズのキャンバスに規則正しく貼られた顔の点画(種子経の一部として連続)作品が並んでいる。


 ここでは先ず、第一に自分が知った顔を探すという行為に気付かされだろう、居るいる、これ知っている、あれこれ誰だっけと。だが、コレを見ながらつくづく思うに、種子経にもそれぞれの表情があるように、そして文字が顔にさえ見えてきそうな錯覚を覚えるであろう、これと逆に整然と並べられた顔の連続がお経にさえ見えて来るかも知れない。顔は歴史を語る経文である。これらは文字である。これらは一期一絵の「書」である。それらの身勝手な解読によっては楽しむことも悲しむことも出来る経文なのである。
 

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茶室の部屋


 茶室の部屋。作品の写真ファイルとビデオスクリーン。制作の途上、作品ディテールなどが閲覧出来る間。
 

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作品の骨子

 

 この世に無駄なモノ、役に立たないモノ、間違ったモノなど存在しない。

チリ・ゴミと呼ばれるモノは、価値・名誉・崇高などと名指されるものと同等であり、無くてはならない絶対のモノである。だからそれらは存在する。それらが在るということが、存在の系の要として不可欠だからである、存在の異なった側面の現れとして、それぞれがそれぞれを補完し合う存在の機能として在るのである。不要なモノであるなら存在しない。


 この三次元下でのソレは形あるモノだけではない。思いも、感情も、勘違い、錯覚でさえもが三次元下でのモノである。これら諸々の三次元下での機能すべてを私は「在」いまと呼ぶ。それを理由に「存在価値のないと呼ばれる」モノが捨てられない。小さな気がかりやチリが「唯一絶対」の部品だからである。今回の展示は、それら通りすがり、矢印や、間違いや、試行錯誤、誤りの跡、そのままを裏方に配した。それらが透明の狭間から、かすかに見えるように。何故そうなのかのヒント作用の波働として。

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 作品の元は「経」または「スートラ」、という綴じ紐の言意である。

この三次元世界=現象世界の有り様を個人の生活を端りとし、思うがごとくのことごとくを一本の紐にたぐりよせ考察しようという試みである。この現象世界の構造を表現する刈谷の「経文」のヒントは旧約聖書の三文字「今在し、昔在し、後在し」。仏典の「ナモアモダボ」21歳時の臨死体験後の夢想に「is the now」三文字を受けた。この文意構造と、記述を施す媒体間に生まれる全存在の同時性、関係関連の系、制作のプロセス実践の同時の生を作品とする創造形式の元型が出来上がった。その名称本来は不生不滅つまり匿名である。その匿名性をこの物質世界で表す言意は「is the now」三文字と相成った。

 記述する経文「the now is」の一連作は初頭「一句蓮経」と呼称した。実践行為は1977年の渡米時の機上、言語構造も問わず英語圏で始めたまま用いている。以外にはドイツ語圏とフランス語圏で用いた直訳文が用意されている。和訳では「是現在即」「是現在」「是今即現在」「是在即」とメディウムにより変化多様で、原則として定めていない。筆記用具は筆、ボールペン、鉛筆、鋭利なモノ、ディジタルペンなど記述可能なもの全てを用いている。

 作品とはこの三文字をいつ、どこで、何に、どの方法で行ったか、如何なる縁に寄るのか、などのモノとの出逢い関わりが主で制作手法に反映する。そのものの有りさまと制作の手法とが現在一致、同化が趣意である。作品とは従って、その時の背景を伴った記述行為の記録風景であり、当時の生き様を描く写生であり、世界存在同時三文字時刻記述実録の写経となる。

 この概念と行為の特徴はそのツールの三文字「the now is」が付され蓮らなり甚大な量の記述の山が陳列される形相にあっても、記述されていることはたったひとつ「the now is」の三文字からなる「ひとつの詩」である。

 「経」という語を採った意味は普遍性を呼び起こし、連続するも、繋がるも、元から発し元に戻る、ひとつにする、一箇所に手繰り寄せる、閉じる、派生する、源、ひとつを思い出すなどの意味を孕んでいるからである。

この三文字のお経を幾多の方法やメディアで展開、その偏在性のイリュージョンを景観し問答し検証するのが目的である。

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蛇足


 作品「種子経」写経

 作品は一つの枠内に収まる限定性を表す。作品の寸法は作家の手のひらの寸法である。それはこの三次元の有限性基準値の「計り」を表す。一握分の数量=約100粒が量把握の目安である。今作品「植種経」は二段階目の作である。

初段階、種子への記述は基本的に一日の内に制作される、後に任意に選ばれた作品が「植種経」として20センチ四方の透明な板に貼られる。これが、新たに制作された今回展示の作品である。新たに種を蒔く、植える、また始まる、つづく波動を誘導する「植種経」と呼称された。


 この「植種経」は当初、過去の種子経作品の保存が目的で始まった。それに伴いオリジナルの写真記録などの同一イメージの再現が始まった。その制作途上に種子一粒一粒のアイデンティティ合わせの整理段階で顔経作品が関連して生まれた。当時、種子経の裏面として顔以外の数字又は任意のイメージらが並行して産まれてもいたからである。作品は既存作品を元とする更なる現在の記録でもあり意味の重なりを経ていることから写経作品と呼ばれた。

 制作のプロセスは人生であり、生きることの一歩一歩、一句一句連なる写経である。イメージの出典は夢、瞑想、記憶、過去のドローイング、制作時の生活の動きや思考のメモ殴り描きなどからである。

 小さな画面は作家の手の平で種子が生きて活動する場・領域である。近づき目を凝らしてみれば、試行錯誤、しがらみ、迷いデタラメなどが混在する画面、作家の抽象的な生き様の素描である。
 作品の裏側は取り替えが可能である。常に変転し続ける作家とこの世界を反映しその裏側が覗かれる。透明性が基本である、それは真実とは限らない。真実は時に居場所や名前を変えるからである。作品はソレ以外のものと共存し、ナゼそうなのかの疑問と思考を勝手気ままに展開するのである。

 作品は作家自身の波動を軽くする流動体である。作品の並べ替えは自由で常に変化し展示は如何様にも可能である。自由に無限に展開する。すべてに、ひとつに、疑問を投げ忘れ思い出し、一歩下がり、移り変わりを楽しむ映画の観客の立ち位置で設定を楽しみ、退屈も批判も無視も許容されるのである。

ーーーーーーーーー
 作品は二重構造を備え裏側という、イリュージョンの前提=バックグラウンドの存在を設定する。それは差し替えが効く。見えるものは見えかた次第で変幻する、変えられ操作される。ものの見させられ方、バックグラウンドに惑わされるイリュージョンの雲中に気をつけよ。そしてビジョンを得るのは、むしろすべての展示が終わった後、そ
の帰り道にボンヤリと、さもなくば、あなたが眠っている間の「在・いま」にやって来るのかもしれない。

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