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「今」とは、無限の時空の海面から、浮かび上がった波頭である

 ごく小さな子供の頃に、とつぜん哲学的な難問に突き当たって考え込んでしまう、ということが、人には、よくあるらしい。私の場合は、あるマンガのストーリーやら登場人物について考えていたときに、(マンガというのは、一般に、個々の人間の主観を越えた超越的・神の視点的なところから描かれているのに)ふと、この僕は、「僕」という一人の登場人物しか演じることができない! 僕は僕以外の誰にもなれないし、自分の視点からでしかこの世界をみることができない! ということに、突然気づかされ驚いてしまったのだった。個人個人の意識は断絶している、ということへの朧げな意識化が、そのときから始まった、ということだろうか。自分のなかでの、数々の哲学的アポリア(難問)への最初の覚醒というのは、自分の「個」の意識に関する、さきに述べたあの体験がいちばん最初だったのでは、と思い返されるのだ。 さてしかし一方で、ひとというものは長く生きてくると、人間の意識というのは自分の「個」のなかだけで本当に断絶してしまっているのだろうか、それともどこか別の次元で、別な存在や意識や時空と繋がっているのではないか、という疑念を、ひそかに持ちはじめることになる。さまざまな宗教(とくに仏教、東洋思想)や、さまざまな哲学、あるいはたとえばユングの心理学とか、ニューサイエンス系の物理学とか、そういったものが、その種の可能性を囁き続けるのだ。いわく、私たちの意識が「今、ここ」のものとして現前しているこの物質的・三次元的世界は、もっと大きく包括的で、時空の差異を超越して広がっている或る世界の表面から、ほんの束の間に浮かび上がった波頭のようなものなのであって、そうした「ある種の包括的な世界」を通じて(通底して)いることによって、私たちは他の存在や意識や時空と繋がっているのだ、という、そうした観念である。

  刈谷博が毎日書き続けている「種子経」(「the now is」)――いま・ここに自分があることの意識化、であると同時に、それがもっと包括的な世界から、そこに繋がりながら、現前してきたものであること――は、その波頭のあらわれである。

  今回21年ぶりにミヅマアートギャラリーで開かれる個展では、その「the now is」が写経のように書かれた豆粒のひと握り分が、手のひらのサイズの枠のなかで透明な板に貼り付けられ、その裏に、シミ受け用紙として使われたメモ類が透けてみえる作品を、ギャラリーの壁いっぱいに並べて展示するのだという。

(そのなかには、顔が貼られた「顔経」の作品も混じることになるという。)

   刈谷は作品メモのなかで、(豆粒=米粒を使っているからか)その作品を「田んぼ」と形容しているが、私の想像するに、作品が並べられた展示風景は、むしろ、無限の時空を内包する、事象の「海」のような外観を呈するのではなかろうか。その海の表面に、個々の事象=豆粒が浮かび上がるように現前する。 種は、その小さな内部に、その後に成長して成るところの過程いっさいを含んでいる。種は小宇宙なのだ。その小宇宙を含んだ種子経の作品が壁を覆い尽くして、大宇宙を形成する。幾十年もの長い時間を脈々と続けられてきた刈谷の営みの、痕跡としての作品は、時を経て、余裕を含み遊びも持った謎の問いかけ、というふうな、ある種のユーモアも伴いながら、私たちを包括するおおいさと豊かさ、慈しみと安らぎの感覚をもって見えてくるにちがいない。久しぶりに観る刈谷博の個展を、楽しみにしている。

倉林靖、美術評論家

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