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2022

 「吾思うゆえに吾あり」

カルチャルテュイターより(英文→和訳)

 「吾思うゆえに吾あり」は、おそらく哲学の歴史の中で最も有名な行でしょう。 しかし、それは誤った引用である。 1630年代にこのアイデアを思いついたルネ・デカルトは、実際にそれを言ったことがなかったから...

 

 まず、デカルトとは誰? ルネ・デカルト(1596-1650)は、多くの現代哲学だけでなく現代科学の基礎を築いた非常に影響力のあるフランスの哲学者。 思想史における重要な思想家だった。

 デカルトは合理主義哲学学校に属していた。 合理主義者は、現実には特定の基本的な真実、知性だけで理解できる内なる論理があると信じていた。 要するに、その理性はそれ自体で根本的な真実を理解することができます。彼らに反対したのは経験主義者で、知識は観察から得られると信じていた。

 彼らは、感覚的な経験を通じてのみ、真実を確認できると主張した。 私たちは観察し、実験し、学び、知識を得るのだと。

 

 つまり、デカルトの合理主義とは対照的だった。

 デカルトは、知識が本質的であり、真実は理性だけで確認できることを疑いの余地なく証明するという途方もない挑戦を自らに課したのである。 そして、そうするために、デカルトは根本的な疑いの立場を採用した-彼は疑わしき可能性のあるすべてを疑っていたのである...

 その思想は、おそらく真実ではない可能性のある主張に懐疑的であり、したがって、理性だけで経験的観察なしに、絶対に疑いの余地がなく、絶対に確実で、絶対に真実である主張が存在するかどうかを発見することでした。

 デカルトは、現実の幻想を作り出すことができる強力な悪魔を想像した。 デカルトは、この悪魔は、実際には何も本物ではなく、数学的真理(2 + 2 = 4)でさえ偽である一種のマトリックスを、すべて欺瞞によって作成した可能性があると推論したのである。

 この悪魔に直面し、如何に私たちは何かを「知る」ことができ、どうすれば真実を確信できるのだろうか。 

結局のところ、あなたや私はバットの中の頭脳である可能性があり、私たちの周りで見られるものはすべて、夢のように純粋に想像されているのです。 

それは真実である可能性があるという理由で、デカルトはそれがそうであると仮定した。

 それでデカルトは自分自身に実存的な穴を掘り。

世界が彼の周りで崩壊しているように見えたので、彼は圧倒的な疑いによって取り込まれたのである。 

*何も* 真実なものはない

 彼は、考えられる信念すべてが疑われる可能性があることに気づき、それらの疑いを受け入れることによって、彼は*何も*真実ではないと信じる立場に身を置いた。

一切はかくのごとく存在している

と云う、のであるなら

「全ては真実である」

と云えるが如く

「これらは人間が作った

人工の概念である、と決めつけるが如く

経験する真実のひとつである」

と云える

それらは世界のあらゆる出来事と同時に

「さも真実が如く」存在している。

「存在している」とイメージしている。

「イメージしている」と意識している。

「意識」していると思い込んでいる。

それらが「このいまに」である。

「存在」でさえ表象言語で

固定化された概念である。

誤りも含む人工概念の真実、非真実も、

すべてが存在という名が「いまに」ある限り、

正や善、超極悪人といった名称は、

真実物語や、非真実物語などの名称と同等に

存在の必然の名称という、ひとつの要としてある。

「一切すべてが名称である」

に過ぎない

ひたすらに名称ごっこ遊びの仮称なのだ

「それ」を「経験」し「つづけている」

何夢

刈谷博 11/3/2022

 このようにして、デカルトはオーギュスト・ロダンの有名な考える人の像ようなものになるのである。 通常は一体で見られるが、1904年に作られた大規模なキャストから、考える人はもともとロダンの地獄の門の一部であった。 

 デカルトの過激な疑いの適切な寓話: 

 しかし、その後、彼がすべての中で最も基本的な信念に到達したとき、デカルトは光を見つけた。 

 疑うという行為は「その疑いをする存在が存在する場合に」のみ可能であることに彼は気づいたのだ。 

 そして、彼が書き記すが如く:

吾疑う、それゆえに吾あり

—さもなくば同じように—

吾思う、故に吾あり。

 今、これこそがトリッキーになるところなのだ。

デカルトはフランス語とラテン語で記した。

1637年に彼は:je pense、donc je suisと書き記すのです。 

 そして1647年に彼は:コギト、エルゴサムと書き綴ります。 

どちらも通常、吾思う故に吾在りと翻訳されています。

ですが、それは全く正しくないのです...

 翻訳では、これらのフレーズのいずれかを英語でどのように書くべきかは必ずしも明確ではないからです。

 

 なぜなら、英語では、現在形の2つの形式:完結と継続があるからです。

それは、私は考えると言うのと私が考えている、というのとでは、異なる意味を持っているからです。

 要するに、デカルトは、真実であると想定されている命題から結論が導き出される論理的で三段論法的な議論を提示しようとはしていませんでした。 

代わりに、彼は他の仮定された真実に依存しない、基本的で疑いの余地のない真実を提示していたのです。

 以下は考慮の参考です:

 1.すべての花には花びらがあります。

 2.バラは花です。

 3.従って、バラには花びらがあります。

 これらは三段論法です。

 デカルトの考えでは、それは次のようになるかもしれません:

 1.存在するものだけが考えることができます。

 2.と思います。

 3.したがって、私は存在します。

 

 しかし、これは彼が望んでいたものではないのです。

思考の「行為」

 重要なのは、自分が存在するかどうかを疑う行為(思考の一形態であることを疑う)は、そもそもあなたが存在しなければならないことを必要とし、そうでなければ疑うことは何もないということです。 そして、決定的に重要なのは、これを真実にするのは思考の*行為*であるのです。

 その時に何をしていてもいつでも言えるサッカーをすることと、私がサッカーをしていること、つまり今やっていることの違いと考えてみてください。

 

 ですから、デカルトは、私が疑っていると言うことは(思考の一形態)、あなたがそれをしている行為の間、他の仮定を必要とせず、命題や結論を必要とせずに存在する必要があることに気づきました。 それ自体は単に真実です。

 おそらく最良の翻訳は、次のようなものです:

 私は考えている、ゆえに私は存在する。

 または、1765年に哲学者アントワーヌ・トーマスによって書かれたように、

 より完全な形で述べれば:

 私は疑う、ゆえに私は考える。

 私が考る、ゆえに私は存在する。

 多くの哲学者がデカルトを任務に就かせます。 セーレン・キェルケゴールは、とりわけ、私が考えている「私」はそもそも存在を前提としているため、トートロジーになり、私は存在すると言う必要がなくなると指摘しました。

 この問題に最初に気づいたピエール・ガッセンディの言葉を借りれば、デカルトは思考が起こっていると言ったはずです。 

ニーチェはまた、

デカルトの疑いは不完全であると考えた、

なぜなら彼は私やその考えが

存在するかもしれないことさえ

疑っていなかったから。

 それでも、これらの批判の多くは、逸脱よりもデカルトの元のアイデアの洗練、意見の不一致ではなく改善のように感じます。 疑いから確実性への彼の旅は、それ以来哲学と大衆文化を揺るがしてきた魅力的なアイデアにつながりました。

 そして、それは、非常に多くの言葉で、アイデアが呼び起こされるような、デカルトのコギトです。 そして、何よりも、それは翻訳の気まぐれさと挑戦、そして言語が私たちの考え方にどのように影響するかについての魅力的な言語学的な物語です。 (または、おそらく、私たちが思考する方法なのです...)

2021

|あなたは存在しています|

 

(12/2021)

 あなたは存在してます。ですが「自の、その、経験を知らず、何を知っているというのですか?」とガストン・ド・パブロフスキーが啓発する。

 

 自分は黙まり瞑想する。

 

「その、存在、説明」を三位一体構造に黙示する。①「仮想現実世界の、心像の、配列に」。②「意図」する。③これを「意」と「図」そして「糸」に手繰り瞑想する。④「する」は「行為する」。①「意図する」とは②「意」を「図」にもたらす③「働き」。④「時間性」というエネルギーが「意味する」に至る「仮想性」の意明示である。

 

 この⑤意明示は「仮想性」であり一時的な額縁に収められた「是如」でしかない「意味」下で仮像である。

 この世界は仮想である。己れを配列することなく、また他という概念の前提を定義せず、且つ定義の前提の誰が何を根拠に、その根拠の証を、その元を問うことなく、一切の存在が説明でき得るのか。その説明自体の元は如何に?

 

と、この世界は「その」説明の「その」説明の「その」仮想性が謳われている「説明のエネルギー」の「いまは是の如し」というイリュージョンを三つの構造に作ること。つまり③これらを展示すること②額縁オブジェを提示すること①「一切世界事象普遍同時性概念」を記述しつづけること「the now is」経の記述。​​

自分自身を配することなく、世界は存在しない?

 自分、自分以外のモノという概念は人間が開発した人工の教義である。教義には教えるモノ、教えられるモノ、何を、何を目的に?という問いが秘さている。

 教義、または真理、それを命題化したもの、教理、とは人為による理論誘導解説である。人間が作った人間界での真理という言葉である。人間に向けた人間が生きるための指針である。言葉もモノである。モノとは言霊である。自らが想像主に似せ構築した衣を着たモノである、と聞く。言葉とは実際のイメージ、音、意味が合体して力を持つように、それは言霊である。モノとは物であり、者、そしてMONOである。MONOとはひとつという単位であり、そのひとつには全てが含まれる単位である。存在がひとつのモノであるならば、全ては理解出来得るのかもしれない。存在一切がひとつのMONOであるならば、分断や差別、非価値、役立つ者、無駄な物などの用語は不要となる。

 

そして、分身たち人間が、いかな道、いかな道を選ぼうと行き着くゴールはひとつである、という思考が可能になる。それには個としての「思い」「感情」「願い」「恐れ」が含まれている、その思考が既に内包していると理解されて来る。人間が究極(何かいいことを期待する)生き物である、とするならば、それはポジティブを「意味」する。これは自分に起きていること、つまり、それはすべての「ひとつ」の思考である、と自分心は世界を観るのである。

 刈谷は観察者→われわれを呈示する。見るものは見られている。観察者はグリッド状に配列され、配置に秘められた操作が隠されているイリュージョンである。操作、役割、目的が配列に内在されている、しくみである。この世界全存在はひとつである。全てはひとつである:ひとつが全てである:全ては同時である:同時に実現し変化している。その変化にひとつの微妙を選択する機会が訪れる。右を選ぶか、左か?。面か裏か?コインを放り投げ決める?私たちはもとより自由である。任意選択する行為に委ねる、選ぶ。どの選択をしようと、何を選ぶかは任意である。自分は選ぶ主である。自分は「その」選択に戒名を施す、絵の具を落とすだけでもいい、名称で在る必要はない。それは記録保存される。記録は全存在と同時にあるひとつの現在の証拠である。価値のないゴミの類と、価値が刻まれた古代ん御遺跡との同時存在である。

 

 作品は「その」「存在」を「説明」する傷、汚れ、または連続する時符の痕跡でしかない。展示に於いて時空領域に関係するかの如く空間配列と作品物証とのイリュージョンを検証する。

 

 風景は「これである、それである、それらいずれでもない、全て」であり「しかし、既にそれではない」の連続である。それらは一時的なフレーズのオブジェである。全ての本性は一時的であり、全ての風景は「そのようにある」だから「記録しつづける」終わりのない風景である。

 

 記述は事象物象と共に繰り返し変化する裏方の遊び事である。記述は時・空間、場のグリッド配列が意図され、言語情報の「元型、関係、説明、時刻」などの図りごとが自らの作に観察され笑い飛ばされる風景である。

 三文字痕と並行し、同時に仮想「現在」を代弁する「時の刻」が付随される;言葉、題目、オブジェ、顔、シンボル、記号、称号、符号など流動変化途上の化身である社会言語情報の根拠、検証を提示する。

2020

1990​

イハラ・ルーデンスギャラリー、New York

易経:八千年の春、八千年の秋

時間と期間の法典

私はこの人生に生まれ落ちた。

私は変化の卦。

緑は春、赤は夏、紫は秋を表す。

6インチは6時間、12インチは12時間、

変化の易の卦による自然と他然の混合存在記録。

日に複数の卦を出した時は、寸法が小さくなる。

混合描法、木材にアクリリック剤、最大24x16インチ。

作品は壁に6列に積み重ねられている。積み重ねられた作品の高さは多様、ほとんどの木材は緑(春)または赤と紫(秋)に着色されている。それぞれの作品には、刈谷の「the now is」経文字が刻まれている。

壁面に並べられた作品の視覚効果は、抽象的な写本やカレンダーのようなもの。過ぎ去った時間の記録として認識されるだけでなく、言語のリズミカルなリズムも暗示している。経文は抽象的であり、アラビア語やペルシア語に漠然と似ているため、比喩的な表現をしていますが、その呪文的な目的は明確である。

エドワード・J・ソザンスキー著『フィラデルフィア・インクワイアラー』

1990年3月18日号

ICAフィラデルフィア、1990年

上、イハラルーデンスギャラリー展示、NYC, 1990年

​下、易経 00 000 1011 1010 1010 1001 000 00 「一日八回の対称的な結果」記録

制作の時間帯、時間を木片に易卦の暗号符号「the now is」経記述と梵字学習記録。一日24時間に分割。日に複数の卦が出た時は、部分的に寸法が小さくなる。数列のコンビネーション混合描法。パイン木材にアクリリック、裏側に日時、卦焼印。最大24x16インチ。

2019

 作品は「その」「存在」を「説明」する傷、汚れ、または連続する時符の痕跡である。展示の場で時空領域に関係するかの如く空間配列と作品物証とのイリュージョンの検証が暗黙下に示される。それが作品である。

 

 風景は「これである、それである、それらいずれでもない、全て」であり「既にそれではない」場面の連続である。それらは一時的なフレーズのオブジェである。全ての本性は一時的であり、全ての風景は「そのようにある」「記録フレーズ」が連続する風景である。

 

 記述は事象物象と共に繰り返し変化する裏方の遊び事である。記述は時・空間、場のグリッド配列が意図され、言語情報の「元型、関係、説明、時刻」などの図りごとが自らの作に観察される風景である。

 三文字痕と並行し、同時に仮想「現在」を代弁する「時の刻」が付随される;言葉、題目、オブジェ、顔、シンボル、記号、称号、符号など流動変化途上の化身である社会言語情報の根拠、検証への誘いである。

2018

 

 記述は「これである、それである、それらいずれでもない」変化の途上に出来上がった。記述は「存在普遍同時性の証」である。記述は存在が元であり、一切万物の生起と同時であり、その行為と同時に存在する生命体である。

記述は「存在普遍同時性の証」である。記述は一時的な「仮フレーム」に封じ込められた「フレーズ」の「しゅ」となるオブジェである。日本語「しゅ」は言霊で「主」「種」「呪」などの同音異語が封印されている。


 三文字痕と並行し、同時に仮想「現在」を代弁する「時の刻」が付随される;言葉、題目、オブジェ、顔、シンボル、記号、称号、符号など流動変化途上の化身である社会言語情報の根拠、検証を提示する。

​「一筆点線描」種子経4展による構成。壁面展示の為の模型。Mixed Media, 2017

2018年 夢は現実、現実はプログラムされた幻想

オルガ・ブラクメディ、インディペンデントキュレーター/@artkukhnia

 

刈谷博は、コードは「幻想を指し示すインデックスと現実を指し示すインデックス」の中にあると言います。この世界は現実を歪めており、アートは幻想と現実を区別する意識を取り戻させようとしています。コードは外にあるのではなく、あなたの内にあります。

オルガ・ブラクメディ、「すべては一つの作品、そして無数の他の作品について」、ミヅマアートギャラリー、東京、2018年

2018年

「私たちは皆同じ源から来ており、私たちがその源である」

彼の作品「the now is」は、毎日、一握りの種ほどの量で、同じ手のひらサイズの透明なアクリル板に貼り付けられています。ある日、「the now is」がその日の中にあり、同時に、ギャラリーで実際に見る無数のアクリル板は、反復された蓄積です。種子の群れは、それぞれ異なるパターンのアクリル板に描かれながら、全体として小さな粒子の巨大な動きを形成します。

この展覧会シリーズのもう一つのパート、「顔経」も展示されていました。人間の顔のニュース写真記事の画像がそれぞれの種子の表面にコラージュされ、アクリル板に貼り付けられ、反対側には「今」または「その他」と書かれています。

高重慎一、リアル東京レビュー、2018年1月13日

2016

2016 🔺

身体の為の備忘録

身体の為の備忘録

身体には頭脳の思考や諸々の癖が含まれ、なかなか治りきれない。​

 存在の認識は体験、事象、名称、感覚、記憶、認識とのズレである。それ以外には構築された組み合わせ論理で合理的、数学的、科学的と命名されたに過ぎない仮想かもしれない。体験がこの第三密度の世界、物質世界の特徴だが、そこに言辞、言葉、パルスでイリュージョンを引き起こす仕掛けが潜んでいる。パルスがホログラフィック映像のイリュージョンを引き起こす。氣付きがあれば意思の判断によって選べる筈だが。


 主は己れである。「信じなさい。そうすれば体験するだろう」ではなく「先ず行動する、されば信じる」。常識の逆説に創造は元(はじまる)。イメージのはじまりは行動の先取り。周りの整理、清掃から始めるのが創造の始まり。

 空手の指導では呼吸法を取り入れる。受ける場合は息を吐き、攻撃は吸うのである。恐らく、その逆だろうという空手家がおられるかもしれない。実は裏がある。攻撃は先の先の極意では引手の極意で突く、が瞬速である。呼氣の先に相手を突いている。吐きは先を読まれる。

 作品制作の理屈の組み立ては生得知識によって得受する。身体に勝手に体得させる方法を制作の場に活用する。例えば体の動きの元は呼吸から始まる。心拍が最初に起こり、脳の働きの元となる。心拍の波動を生得知識とする。それが活字会得ではないことが重要。脳は先ず心拍に起こり直感が生じる。心拍集中は呼吸連動の同時に始まる。呼吸は運動の起こり、生命の直体験である。心肺のリズムで脳パルスの働き、器官の系を流れる粒子の波流を意識するのである。

 呼吸はその肉体部位の状況を構成しながら分布反映する。科学的な反応変化が、領域、形体、周りの状況や状態に作用し合い、変幻自在に分布していく。

空手の極意の一つは相手と一体になること。一体とは自分と相手と全体とひとつになるのである。つまり「愛」「意」「I」、自らが、ひとつになることである、相手を倒す必要などない状態の意、だから極めを極意と云うのである。

 人間の場合を例にすると、身体から始めなければならない。自分の身体が変わる必要がある状況に応じ変化する。体が動くと体型が変わる。体が変わると呼吸が変わる。呼吸が変わると思考が変わる。そして思考が変わると、自分が変わる。その繰り返しは同じでも、応用が行き経験値に応じて変化、進化する。動きを止めると、逆も起こり加減に応じ退化する、と信じれば退化する。逆に、退化せずを決めれば退化しない。決めのいい加減にもよるが。

 動作の反復は観察するという視点を経験の途上に提供する、つまり、あなたの多くの層が密接に重なり結びついた組織の具体的な関係と影響を反映する。走っている時、あなたの呼吸は変化する、それはいつもより酸素がたくさん必要であるからである。走っていると呼吸が変わる、呼吸が変われば思考もその状況に反映し変わる。走る人間の思考は走ることに関連した思考に対応する。

 チベットでは、怒っているなら少し走れと言う。家の周りを2、3周し戻り、怒りがどこへ行ったかを探せばいい。早く走ると、呼吸は変化する。呼吸が変わると自らの体と周りとの関係の速度が風景として早まる感覚をもつ。つまり環境が変わり、時間経験の速度が変わる。一般の人の動き、思考が遅く感じられさえする。空手の世界の速度は一瞬に結果を決める技にある。実際は決める一瞬前に相手は倒れている速視観である。認識知覚する以前で、勘という。修練を積むと、相手の能力は、スピードの読みに現れる。相手の呼吸技のスピードを得、相手に同時を合わせ、その先、空即是を突く、先の先という技である。

 存在は見えるものだけではない。見えない世界の異なる存在の中に存在する肉体がその変化に晒されると言う体験をする例である。見えない存在という観察知を空に座して、それに合わせ、肉体が平行して形成されるイメージに思考パターンを合わしていくのである。これはドリル仮想を現前イメージ化する方法である。アーティストには身に覚えがある筈である。目を閉じるとそれが出来る。気付かないだけで、放っておかれた通常にそれはいつも起きているのである。それを意識に置くか、意識集中を儀式化し生得につなぐか、如何程の経験値でそれが叶うかなのである。私は種子経記述行為の狭間に百11万粒、一粒一粒にそれをやっている。決めることで容易く、意味もなく、作る必要もなく、念にあるがまま集中する、それを決め「意図する」のである。

 この原理を観察すれば、走る必要はないかもしれないと直感する。5、6回、深呼吸するだけでもいいのかもしれない。吸って、吐き、吸って、吐く。そして怒りがどこへ走って行ったかを観察する、それを「意図する」のである。思考のいい加減さを肉体の使い方で変えるのである。そして怒り、または恐れの消え去った場所を探せばいい。そのでどこを思い浮かべればいい。それらを観察する心がどこにあるかを観察すればいい。人間の思考の自由ないい加減さはポジティブな観察にあるのだ。そのいい加減さに自由の力の大を見出せれば、途方もない量の可能性の無限の闇に光がポッと放たれるのだ。

 (まぁ、思い込みの強度は年齢に応じ異なる。若い程、修練は早いが年をとるほどに刷り込みの強度は途轍もない。DNAの再接続に頼らず全ての洗脳を解くことが出来るかどうかは自己暗示の方法、形式、儀式的な自己刷り込みの訓練と修練によるだろう。これも学びのひとつ、目的のひとつかもしれない。あともう少しまで来ているはずだ、常に、あともうひとつなのだ。ゆったり楽に出来るを信じ自己暗示も修練も強化も錬磨の繰り返しも適当に続ければいい)

 思いは、感情は、その瞬間に、即、変えることは難しい。だから身体を変え、次に呼吸を変え、そして怒りなど存在しないと見切るが簡単と観察すればいい。この簡単な原理をすぐ忘れる。だから書き留める、忘れてもいい。それが、すぐできなくて当たり前である。楽に、分かっていけばいいのである。

 イエスのもと、マホメッド、仏陀のもとへ行ったら、彼らは「怒りを捨てなさい」と言うかもしれない。「怒りがある」としたら、それは怒りを助長する呼吸のパターンがあるということ、言葉を真に受けると言う癖、それを直接受けてしまうという癖、そのパルスに気付かず、自責に反応するからだ。その闇のしつけが、怒りの直結を招くのだ。その自分を観察する、その合間に虚空を息を止め10,20,30,40,50,60秒出来る長さの一瞬の永遠に得られるのだ。

 自由とは、あなたが主、四苦八苦の末、怒りを捨てられず、でも構わない。そのような自分は、それを学ぶ為の今生の経験値を選んだのかもしれない、とすれば余程の高位の存在だったに違いない。普通は、怒るほど疲れる、やがては、その繰り返しにピリオドを打つのだ。呼吸について書いてるのは、怒る人ほど呼吸が散漫で酸素供給が足りていない。深く息をする癖を磨くと良い。どんな場合も、気が付いたら深呼吸を三回する。不必要な場合にそれが出来るようになったら、あなたはゴールに近いのだ。それがきっかけで自分の呼吸のパターンや呼吸のリズムを見つめ始める。

 

 自分が特定の呼吸のリズムをとっているとしたら、そのために自分は特定の姿勢をとっている。背筋をまっすぐ伸ばし姿勢を正しくして呼吸する方法を学び始めるだろう。怒りの原因は、姿勢悪さの癖が原因だったり、深呼吸がなされていなかったり、肉体的不自然が原因が多い。次は、誰かの真似が講じてテレビの罵倒場面を見過ぎていたりとか、深呼吸の間に瞑想している場合があるので、無意識に身を委ね、呼吸の合間に内観をお薦めいたします。

 身体はもっとも粗大であり、マインド(表面意識)はもっとも微細なものだ、仮想は無尽蔵にわき起こってくる。沸き起こらなかったら、目の前の何かを、偶然に選んでもいいし、すぐ気が変わったっていいのだ。君は主なのだから。それが飽きたら眠ればいい、休めばいい。放っておけばいい。

 姿勢から始めると言う方法もある。私たちはあまりにも注意を欠いた生活をしているので、観察したことはないが、マインド(表面的心)にある種の気分を抱えている時、自分は必ずそれに関連する特定の姿勢をとっている。たとえば怒っているとき、自分は寛(くつろ)いでいられるだろうか?それは難しいだろう。怒っていれば、自分の姿勢は変わる。眠たければ自分の姿勢は変わる。

 

だから、意図して、全くそぐわないとされる姿勢を考案してみるもいい。概念にこだわらない姿勢を三分。呼吸一分おきに変える姿勢。楽しい時の姿勢。幸福感の姿勢。それらの姿勢に言辞を与えて見てもいい。全く無意味な言辞を。全ての既存概念にそぐわない、動物、植物のイメージのポジティブと感じるイメージを真似てもいい。大きなイメージとただそれだけでも。

2012

2012 0605 1060 微生物の本体は酵素 

生物の登場は酵素状態の結果にすぎません。微生物の存在というのは、物質的実存でなく「状態」であると見ています。人間社会も同じ、無数の人が確率的に存在しますが、その本質は状態にすぎず、個的存在は結果にすぎない。人間の弁証法による見方です。それは光粒子のホログラフィックな仮想映像です。

2012 0605 1059  保険、製薬、医者が三位一体

米国は保険会社、製薬会社、医者が三位一体。彼らの仕事のために病気を作っているという報告が少しづつ表面化して来ている。実はあなたもかつて、その医療関係の当事者を演じて数多くの人々を殺している。この世界は仮想の世界、それを観察する。その視点を全てに応用すれば世界は住み良くなる。

2012 0102 1019 あなたは死なない 

あなたは死なない。「死」は人間の作った妄想概念であなたを支配の牢獄に閉じ込めておく洗脳の仕掛け。吾々の本質は「霊」で「不生不滅」死ぬことができない。物質も変化、形、性質は変わるが滅しない。無は存在しない。ニコラ・テスラのひとりごと「目で見える世界は心の妄想…」心自在である。

2012 0102 1018 あなたは今は人間です

われわれは人間を演じています。永遠にはすべての、そのひとつの聖なる存在である。苦悩は、仮想パルスに氣づくプロセスに、本の束の間の、自らが背景や配属に至る詳細なプログラムを作り自らが主に提出し契約を得て経験している。結果は、別、究極、それらを含めて生を学ぶ楽しみを体験をしている。

2012 0102 1017 あなたの内にある意明示です

神、自分、又は他人とかということは、自分の内にある心の設計です。自分自身の内のマスター性を気付かせる意図です。鏡の写しの仕掛けの鍵を見抜くことです。分身として自らが実践体験するプロセスに目的が潜んでいます。簡単では体験の意味も面白くもなく、あえて複雑に、各種の試行錯誤を繰り返す、全ての仮想現実の演技者であった分身の目覚め物語を観察する大作映画です。

 

2012 0102 1016 あなたが宇宙を創った

インドにサイババという人がいます、その人は宇宙を創ったと言っています。そう、いまここにいる一人一人が宇宙を創ったということを思い出させるための言葉です。いま、と書いたのは、いまこれを読む是現在で、時間は仕掛けられた仮想の連続画、グリッドパルスの投射図。目の領域視野を埋め飛び込んでくる謎めいた映像の連続に騙される劇場映画の現実をいまと見間違う働きです。

2012 0101 1015 「夢中説夢」道元の造語

夢というのは、あなたがその中にいるうちは現実です。夢の内にいる間は、それは列記とした現実である。夢の内にいる間は、確固とした現実と反応する電氣パルスがDNAに仕掛けられている。知っていても忘れる仕掛け。潜在意識に暗示の信号を繰り返して送って顕在意識に思い出しのパルスを送ることが出来る。信じ込みを自意心に命令するのです。これを読むあなたが、命令を受ける奴隷とするなら。命令するのは、受ける「選択をする」あなたなのである。

2012 0101 1014「自分を忘れ思い出す」

「自分を忘れたことを思い出して下さい」あなたは観念以上の存在なんです。自分が思ったことは、存在するのです。真に、心に、信に、神に決めることで、すべてが可能です。ですが、ほんのちょっぴりのかすかの疑いがあったなら、それは実現しません。そういう仕掛けです。100%氣付くことを「決める」ことで変えられる。自分の意識に根気よく命令する。自芯が「決める」のです。

 

2012 0101 1013「あなたなしには何も存在しない」

「あなたの存在なしには何も存在しません」簡単なことです。あなたが全てを創造しました。想像も含めて、登場する人物も出来事も、隅々にわたる物語も、これも、伴侶も子供達も、嫌な奴も、好きな出来事も大きな映画のセットの実物も映画も仮想を作ったということも、これらを打ち消すこともです。

2012 0101 1012 存在を創造したのはあなた

存在を想像したのはあなたです。ですから...あなたの他にあなたの宇宙であなたを否定する存在はあり得ないのです。あなたの宇宙にいるその存在はあなた自身を知るためだけに存在しているのです。それ以外あり得ないのです。だから、あなたは完全に安全なのです。学びのために自が意図したのです。

2012 0101 1011「姿を変えたあなた」

「あなたがどんな出来事と関わろうともあなたは直接的にその事件と関わっているのではなく」「姿を変えたあなたが創造」としての出来事をあなたが宇宙に起こさせ、それらとの関わりを登場させているのです。 #是現在

2012 0101 1010 あなたは「出来事です」

あなたが「究極の具現者です。」神という虚像も、彼が言ったという人伝の言葉も、聞くあなたも、無視するも全て自ら発しています。それが嘘か真実かは自らが決め変えられます。日本語は素晴らしい道具です。心は神とも読めます。あなたから全ては発し自由です。言霊はヒントで無限の視点を示しています。

 

他から得たという作用に依存するのは、そのように操作されているから。厳密には、そのように操作されていると信じ込まされている巧みなパルス作用。パルスと作用の仕掛けを想像して下さい。誰が発した言葉を誰が受け取り、誰がその言葉を選び聞き、どのように解釈するか、それはあなたが全て決めます。選ばないことも。見ない聞かないも。知らんぷりも決められます。

 

どのように判断し、どの選択をするか、全ての結論は、あなたが決めます。あなた以外の誰も決められません。選ぶのは自分です。世界に真実はたくさん並べられ無数の真実が並んでいます。同時にそれらは全て嘘。それは目を閉じたら消えてしまう捏造、または創造、想像で、すでに存在しない。真実は偶に選び取られます。そして選ぶ必要もない空っぽ。空っぽは何も言わない。

 

だから、あえて存在とする、その内の気に入った一つを選んでいいのだ。選び取る時に、恐れさえなければその選択は間違ってはいないのだ。自由とは、もとより自在、だからそれを返してくれというのは、支配下の自分を認めて他に委ね頼む、恐れのパルスのスイッチ。「自由がなくなったらどうしよう」と頼る他力本願、恐れの働き。元より自由自在なのに、おかしいね。

登場人物には、信じ込みの役割に他人が含まれる。しかも複数だから、ものすごい数の他人が周りにたくさん登場してくるのだ。彼らは、あなたが作った物語の仕掛け、裏方さん達バックグラウンドの兵隊。あなたはそうは信じないだろう。まさか、自分が自分を騙すために、その仕組みを作ったとは思わないだろうが。学びの本当を体験して頂く仕掛け人形達なのだ。

 

あなたは全能の神です。あなたはずば抜けた知恵を持った全てだ。調整を含み、誤認を含み、曖昧を含み、やり直し、書き換えも含み、そのような、仕組みがあることも、それを疑うことも、逆に氣付かないか、反発さえもする、考えられるバリエーションの数々を含む、ありとあらゆる、しかももっと複雑な仕組みを作り、なおも作り続けられるあなたは全能の神、その分身なのだ。

 

登場人物だけではなく、その物語の作者も、その作者を批評するもの、それらを考察する学者、研究家、分析するもの、それを脚本にして映画を作るもの。これら全部の設計者。それらを観察する観客も含む全部が自分の作品なのだ。このようなこと、考えてもみなかった、と思えるほどのあなたは素晴らしい設計者なのだ。これを聞いても、自分は決してそうと、気が付かないだろう…

 

そしてその分身を、この地球に送った。記憶喪失で自分は誰だったか、とふと思う。だが、転生と同時にすぐ忘れ、また探し求め、思い出せない自分を何度も生まれ変わり、輪廻転生を繰り返し、また繰り返し、なおもまた、思い出せない自分を何億年も何百回も輪廻転生し、やっと今回、思い出す段階を得ることが得られそうな役柄の登場人物の自分を配した。

2012 1440000

記憶喪失の罠に閉じ込め、輪廻転生を繰り返し、世界のベストセラーの筆頭、聖書の書き換えられた物語を読まされ、その聖書物語の映画に洗脳され。懺悔、罪悪、恐れに慄くパルスに反応し、美を選ぶ幾何学の形体と波動の協調が仕掛けられ、性の衝動、食欲のパルスが埋め込まれDNAは書き換えられた。

 @Me_We_Me_We 2012

目がさめると「罠」が起動する。生の「繰り返し」に「恐れ慄き」束の間の教義快楽の「生」を楽しむ電磁波が作動する。「その現在」が仮想=イリュージョンである、人類はそれに作動し化学反応を起こし「パルスに従う」のだ。気付いてはいけないと意識作用が肉体という器に号令する。これを読んでも、君は疑う、それだけ教義信念がイオンの永きに堅固甚大であったからだ。

言葉は物質である。物質的に働きかける信号パルスがグリッドと意識に連結し物質化の作用を引き起こすのである。

「明日何が起こるかわからない」という言辞は不安感回路に導く隠された暗示の罠である。その言辞は無意識に刷り込まれ顕在化している。無思考、観察視の高位の位置から観察する、心す、いと簡単なこと、と決めること。

「外側の世界」という言辞は、分断が隠された罠である。本来は外も内もない、言葉はイメージで分断を無意識下に設定し顕在意識に刷り込まれる。

同様の方法で、自身をコントロールできる。潜在意識の反復の作用を自分自身に施すのである。全てにその方法が活用できる。写経が、その目的のひとつである。意味をなし、イメージに成す、反復し、意識し、繰り返し、自らは無意識に顕在化させると決める。そのイメージがあるから、そう成ると決める。

 

この文章も含め書き込まれる言葉の洗脳によって物質密度に誘導される。そこから脱却することを真意に働きかけ、厳密に、それではない、という無意識設定の言葉に思いを込め表す。その自身の行為を観察する高位を意図する。この意図を、意識するといい、行うを意志と為すと宣言するのである。

自分とはすべての元より発しているのなら、DNAでさえもが自分である。そのアクセスを忘れたと言われ、それを信じ込むパルスを起動させているだけである。そうではない、と命令すればいい。意志によって、その機能を起動させると決めればいい、その働きを引き込み意識を起動させ、そう意志するのである。DNAの64本は自身と再結合する、そのように念ずるのだ。

 

安堵感を持って響く、平和を思う、祈る、願うの言辞には疑惑が背後に潜み暗示作用を起動させる罠である。自分は完成された存在である。不足は何一つとてない。そのように意識し、意志、実行に先ず「動く」を為すのである。

 

自分は祈らない、そのように決める、その決めたイメージを見、その指令を明確に出す。祈りは他力本願を込め他に願う作用が起動する罠が潜んでいる。自分の意を他に委ねる波動である。自れの心に働きを起こす。意識に決め、そのように形に表し行為に落とし「絶対に実現する」と決めるのである。

 

他力本願とは、他に何々をして頂く委ねる、潜在意識に支配下である旨を刻み込む罠である。自分を救うのは自分以外にはいない。誰かに頼る、何かに委ねる、という刻み込みがある限り、自分は輪廻転生の牢獄地球からは脱しない。自分が探し求める答えは、自分自身の心の内にすべて潜んでいる。

 

目を閉じ、思いつくままの想像が第一歩である。だが、恐れが出てきたら、又はこうしなさい、あれしなさいと、意に反する不快感が出てきたなら、そのイメージをゴミ箱に捨てる想像をする。気分がいい思いのイメージに付け替える。それらに光が照らされるイメージを描いてみるのだ。これが自力の一歩。創造の第一歩は意識する想像から、少しづつでいい、軽く快く始まるのだ。

「無数に偏在することごとくの、そしてひとつの、宇宙の波動」であるとは、全て同時であり、もとより偏在し、あえてこれを意識することにより、心意識に働きかける言辞である。具体の世界では、イメージもできる限り具体、想像が細部にわたるほど実現が早まるのだろう。なんでもが可能になるはずだ。

 

段階的な表現で、第三密度脱却少し前までの表現法である。常套句で、次のレベルでは、もとより全く自由であるから、自由を願う必要はない。であるのに、自由を願うとは矛盾である、ことに氣付くのだ。それを願うとは、自らが、不自由であると顕在意識での決めつけをあえて認識に刻む行為が躾けられる。これが、異なった時代、場、次元、密度で繰り返される。

 

言辞の用法による洗脳は、凄まじく巧みである。同じ穴のムジナを支配する同じ穴の狢が時代を変え新しい顔、新しい名前、新しい分野から登場する。世界のすべての構造に現実社会の仕組みに、学校教育、社会構造、情報文化、メディアのテレビの言葉の用い方のひとつひとつに至るまで、きめ細かく、行き渡り、大きな洗脳の目的が途轍もない長い歴史に渡って隠されている。

 

自分たちが望む世界を、そのようになる、と決める、そのように為すと決める。それをイメージすること。そのように活動し、建設していくイメージを具体的に持つ世界はいずれはやってくる。だが、そのようなことは、過去幾度も、幾万も、何億年も、ひょっとして何兆年も、そうであったような、そのような記憶を自分は夢に見た。目覚めの時、これを書き留めた。

この世界の一つの秘密は、この世界はあなたが作ったという事実である。あなたが、そのひとつのひとりなのですが。そのような認識は絶対ない、と信じ込んでいる。そのようにがんじがらめに全世界の構造の下で躾けられてきた。だから、その真実は絶対魔に受けない。この言辞が秘密である。この言辞に出会う者が、創造主なのである。聖者の一人とは、実はあなたである。あなたは是現在この秘密に出会った。知っていることを思い出した。無数のあなたが、すべての経験を、それぞれの自分に、それぞれの位相を遊んでる?。嘘だ…

テレパシーの本質は「ひとりごと」。他に伝えるのではなく自らが出来事。肉体に非ず、以心にあり。自分自身の肉体の指関節、目耳舌身意を自由に動かしている心意にあると。時に勝手効かざる時あらば、が、ほぼ思うがままに指は動き、見たいものは見る、というが趣に快く以心伝心瞑想が如く、自らがヨシナ他に溶解すると、吾が身が愛の雫一滴授与振動ひとつ同時があんばいに…

 @Me_We_Me_We 2012

2013

2013 🔺

 誰かが助けてくれる、とはプログラム暗示

 「イオンの永い間、人類はさまざまな段階の「ネガティブ思考」という電気信号のパルスに接続されてきた。その生の仕組みを知ることにほど遠く記憶を抜き取られた結果、無頓着という結果の、卑劣な行為を遂行させる陰のコントロールが簡単に構築されてしまっていた。」 (8)

 

 何千年にもわたって延々と地球の人々が仕向けられたことは、記憶への怠慢、自分自身を軽視するという誘導によって、その経験を刻み込まれてきた」 (1)

 

 「私たち以外の誰かが自分を助けてくれる、と信じ込むように、人間はプログラムされ、条件づけされてきた。だが、私たちを救おうとしている者などは自分一人以外に存在せず、探してもどこにも存在しない。 (4)

 

 これまで何百万年もの長い間、人によっては数兆年、時間などは存在しないのだから数などはどうでもいい、人類の多くは、「私たちの指導者がこうした行為をするわけがない、そんなことは信じたくない、見たくない」という「自己否定」にすがりつくことによって、現状に不満を抱きながらも、それを打破するために自分に何ができるか考えず、何も行動しないという「怠慢」が、そして自分の持てる力や選択の可能性が「無頓着」に「軽視」され「卑劣な行為を遂行している陰の温床が簡単に構築」される、という自己否定のさらなる否定の構築を許してきた。

 

 また一方では、自分以外に「救済者」を見つけてそこに逃げ込もうとする「依存」傾向も「人類にプログラムされ条件づけされたもの」だった。人類は、無力感に囚われ、持てる力を他人に渡し、その者の操縦に自らをゆだねるという姿勢を通じ、歪んだ支配構造を揺るぎないものとして固定化させられてきた。

 

 「アセンション」(元に氣付く)とは、厳密には、自ら本来が性を思い出すことである。自分が創造主であるという記憶を思い出すことである。吾々のDNAは2本しかない、元々12本あるDNAを元に復元する働きかけである。それが持つ本性の力を回復することによって、闇の支配を地球から完全に抹殺することである。すべての知の体系の元の姿に戻すことによって、宇宙の真理が基盤とされた構成に戻すことである。つまりこれまでの支配のカラクリの全てを、骨格の悉くが崩落することで。地球を実質的に支配してきた者たちが、「アセンション」を懸命にひた隠してきた理由がここにある。

 「高周波密度の影響が、私たちの人生に及ぼす無数の役割を理解することは非常に重要なことである。私たちの世界が、他の密度、次元と、時空を超えて存在していることがより明白になってきている、自分自身が別の現実にも存在していることが理解されてくるだろう。すべてのソースは自分自身であり、ここにあり、全てにある。そうでありながら、自分自身が分身として、それぞれが独自性という、独立した存在としての経験をしている経験の法則で存在するのである。自分は単独の存在のように見え、実際は、自分の知覚の限界を超えて存在する多くの現実に永遠に結びついているのだ。」この理解とは、つまりテレパシー、以心伝心、ひとりごと、の意に込められている。 (1)

 

 「例えば、自分が、自に起こっていることは全部知っていると信じて人生を生きているとしても、まったく同時に、自分自身の別の側面が自分の意識に共存している。そのような別の側面は、自分の顕在意識よりも、自分の高い周波性の密度、または多次元性でもいいが、についてもっとよく知っていて、たんに別の波動域に同調するだけで身体を離れて活動できるのである―同じ細胞、同じ分子、そして同じ器官を 使いながら。それらの別の側面は、自分の顕在意識のもう一つの高い周波数のさらに高い周波数で観るという視点の本性、観察する昇天を持っているのだ。」 (7)

 

 「私たちの独自性の一部分が「現在」に強く焦点を合わせていることは事実としても、素粒子レベル上の意識は、「非局所」の存在として現実を体験している。つまり空間や場所を隔てる壁や境界はないのだ。「非局所」とは、あらゆるところに同時に存在すること、一切万物すべてに偏在することを意味している。自分の細胞が予知能力を持っている理由はそこにあるからだ。自分にとってすべての瞬間が重要である。それは無数の選択の可能性を含んでいるから。人間の思考性での重く、研ぎ澄まされた、堅苦しさの全てを解き放ち、ゆったりと遊びながらという趣なのだ。」 (7)

 

 私たちの本質である「意識」は、厳密の定義では「意」と体験する「識」に分けることができるが、そうする必要があるわけではない。つまり「意識」という概念や定義、それ自体が「意識」の識別を目的とした人工物だからだ。これらを思い出す目的があってのことだと感じればいい。「感じてみてよ」という概念もだが。それらは、さまざまな密度の「身体」に同時に宿り、多様な体験を通じて進化する氣付きが暗示されている。つまり、「自神自心が別の密度、次元にも存在している」ということである。夢の世界で、その一端を垣間見る。「別の現実」に存在している「己分心」の「片割れ」は、高密度、多次元世界では自由に「身体を離れて活動できる」、だから「現実の本質を常に観察している」状態が説明される。

 

言霊;身→心→神→真→新→信

 

 「身体を離れる」といっても、私たちの立脚点としての肉体とのつながりは保持している。つまり、「同じ細胞、同じ分子、同じ器官」を、物質界とは別の様式で使っている。私たちは表面意識が気づいていない「本質を見通す視点」を、直感やインスピレーションとして、「意識」から受け取る体験を経験している。

 

 このように、私たちの「意識」が複数の現実を同時に体験しているということを別のかたちで表現すると「万物に偏在する」という。つまり、万物、すべてとつながっている意識心である。だから「自の細胞が予知能力を持っている」のだが、ここでいう「予知」の意味は、すでに起こったことを見ているのではなく、自分に関係する周辺のあらゆるものの、直近の「意図」や「方向」を験知する直感なのだ。自他はない、すべてが己の感覚。過去現在未来はない、すべてがいまにある。

 

 未来は、どんな意味においても確定していない。己に関係する周辺のあらゆるものの、直近の「意図」や「方向」を験知するのであるから、「未来」はすべての「参画者」の、瞬間ごとの選択によって確定していくもの。だから「すべての瞬間などなく、いまに、ゆったりと、注意深く、責任があり」だから行為、行動、言動が起こることになる。つまり、瞬間などなく、いまに、おのれたちは、自の目先の現実を創っており、集合意識としての創造に参画していくのである。さらに、全宇宙の、細密なる微妙も「知性」の創造活動の一端を担っていくわけである。この事実を快く軽く意識に浮かべ、ゆったり呼吸に集中する。ゆっくりと、ほんわかに、軽やかに、やんわりと、思うがままに。

 

 もとより、自ず由が本性、間違っても、いい、やり直せばいい、時間など無限にあるのだから、好き勝手に、眠くなったら寝る、氣がむくまま…

2014

2014 🔺

9/5/2014

H、いろいろありがとうございます。
カタログ よろこんでくれて嬉しいです。
今日読み終えた本のブックカバーの写真送ります。添付ご覧下さい。
Hのロフトは何階でしたか?懐かしいです。

中森さんの件ありがとうございました。彼は以前NYで弁護士をしていてコレクターだったそうで、9.11以後,大学に入りなおし今Hauston の美術館の写真部門のキュレーターをしているとのことです。

日本は変な天気です。雨が多いです。
きょうはひさしぶりに天気です。

お元気で。K&N

Canal street _edited.jpg

359 Canal St 3階刈谷博のスタジオ。ナムジュンパイク、靉嘔、折本立見、仏原和義経由でフィクスチャーフィー(改造費)を支払って買取ったスタジオ。トランプマネージメントが家賃の支払先だった。上4階に柿崎せいじ、エリザベス、ミカ(子供)、1階がプラスチック屋。ディック・ヒギンズが2階に住んでいたらしい、知る人ぞ知る、FLUXUS発祥の地である。

ピーター・フランク、シリル・ジャバチョフ(クリストの息子)、利根康尚、ウルフ・カーレン、ベンニ・エフラット、アレックス・カッツ、ヨヨ・フリードリッヒ、ウルフガング・ルイ、ヨハネス・レンハート、ヒルマー・ボイル、ライモンド・バンベル、ゲーテハウス、バーバラ・ウオレス、古川由重、森本洋充、ミミ・モリモトらがプラスチックスパーティーに参加した。

9/3/2014

K、カタログ届いてました(8/29発送9/2付着)。

貴重なものをワザワザ有難う。

北九州の写真の軍は圧巻、見えないものと、見えるものと、見させられてるものを通して、見るってコト、見えるってコト、見えないってコト、の問いかけが永遠と続いている心象風景が見えて来た。ニューヨークでも、近い将来、お目にかかりたい作品。

Nちゃんの作品のカタログも有難うございます。影に当たる部分に墨絵の陰影を感じてしまいました、色彩を使ってるのですが、モノクロの映像を見てしまいます。それはおそらく、結界の切れ目の厳しさと影との中間がボカされ三次元なのに二次元のように見えて来る幻惑の揺れかもしれないです。

 

Nさんから連絡は届いてると思いますが、二週間前の木曜日朝、Nさんにジャッキをお渡ししました。朝の訪問時に、先ずジャッキをお見せして、ニューヨークに来た経緯と、Kにデュッセルドルフで会ったコト、PS1での展示迄の会話で時間、次の約束まで間に合わない、改めて正式のアポイントをとって訪問をしたい、とのコトで急いで帰られました。(自作品の印刷物を尋ねられ、何冊かお渡ししました)。想定外にジャッキ、思ったほど重くないので、と云うコトでお持ち帰られました。

 

Nさんコーネル大学で美術史の博士号を取って、卒業後コーネルで展覧会を企画したこともあったみたい。息子のMが同大学、化学科のPHDで現在通っているので奇遇です。大学にはかなりの展示スペースがあるらしい。

 

ニューヨーク、ここ三日間、物凄い暑さの振り返しでエアコンを入れてる。H

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8/14/2014

K、了解です。

Nさんからの連絡を待ってます。

3日前に戻ったのですが、こちらは涼しいくらいの過ごしやすい夏です。

メイン州では、ロブスターをほとんど毎日食べてました。

夏、風邪など引かないよう!H

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359 Canal Streetに住んでいた頃、植松奎二が滞在中、PS1での展示が即決し、近所で急きょ購入したジャッキは日本製だった。PS1展示後、保管していて、キュレーターの中森さんが受け取りに来訪。今回NYジャパンハウスで展示に使用。上の木材に当たる原木はブルックリンのスタジオの台所に変貌

8/14/2014

K、了解です。

Nさんからの連絡を待ってます。

3日前に戻ったのですが、こちらは涼しいくらいの過ごしやすい夏です。

メイン州では、ロブスターをほとんど毎日食べてました。

夏、風邪など引かないよう!H

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8/3/2014

H、メールありがとう。温さんのNews僕もDUsseldorf で7月11日友だちの電話で知りました。
5月Newyork に行ったとき癌で患っているとは聞いていました。奥さんの博子さんが看病していると聞いていました。
ひとつの時代の終わりを感じます。昨日大阪国立国際美術館で温さんの I am still alive の電報を見ました。そのうちの一つは僕がDusseldorf の僕のスタジオの近くのPost に付いていって送ったものでした。
1981,05,17.でした。

ではお元気で。温さんのTwitter 未だ I am still alive やっているそうですよ。
K
(14/08/02 0:46), hiroshi kariya wrote:

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8/1/2014

K、アレ、古い住所に送ってた、でも届いて良かった。

ジャッキ、連絡待ってます。先週ミシガン、来週はメインに行って来ます。

今年は全般的に涼しく、ミシガン湖の畔は、はだ寒かったです。

Kの活躍に、活力をもらってますよNちゃんにもよろしく。

 

空手の合宿中7/10、温さんが亡くなったとツイッターで知ったよ。

早すぎるよなぁ!…81か、I AM STILL ALIVE はこの日の為の作品なのか…

 

大阪のKの新居訪問の1995年だったな…、大阪から東京に向かう新幹線に乗っていたら車内アナウンスで電話が入っていて、温さんミヅマで待っているという。約束などしていなかったが急いで駆け付けた。既にミヅマで数時間も待っててくれてたらしく(灰皿に吸い殻がかなり溜まっていた)。

有に2時間は待っていたはずで、電話で、五分で着くというソノ五分が待てなく、次の2ブロック先の画廊で待っていると伝言を残し、温さん流は立ち去っていた。やっと近所の(女流経営の)画廊に追い着いたら、既に灰皿に吸い殻が溜まり始めていた。

温さん原美術館の展示で東京に来ていた。会話の途切れに、ニューヨークで奥さんの博子さんと道でバッタリお会いしましたと云う話をしたら、突然プイ、「うん、帰る」と怒った風を見せていた。

その後ニューヨークに戻って、夕方のFトレインで呼び止められた、そのバッタリ出会いから、スタジオでペチャクチャ、上さんいないんだ、と近所の"ともえ"で夕飯のお付き合い、後で気がついたらその日10時間位は一緒だった。キャンバスにその日の日付は描いていなかった。

その翌年だったか…ソーホー、プリンス通りクロスビー街に向かうディーン&デリーカの角の交差点で、又バッタリ出会った、その時、温さん背後に女性と一緒だった、が恥ずかしげに、彼女を後ろに隠すように快活な笑顔で「やっ、元気?」と?それだけ。

…それが最期、それ以来出逢うことはなかった。その女性が内藤礼らしく、その後、奥さんとはスタジオとともに別れたらしく、クロスビーの倉庫を改装中とか、時間とともに耳に届いて来た。

新聞記事には家族の名も、顔も、といった個人情報は載せないという画廊からのただし書きが載せられている。1989年のエグジットアートでの個展に来てくれた。その時の撮影した顔写真は生存中は絶対に一般公開しないように(河原温)と言われてた。

NYTimes: On Kawara, Artist Who Found Elegance in Every Day, Dies at 81

http://www.nytimes.com/2014/07/16/arts/design/on-kawara-conceptual-artist-who-found-elegance-in-every-day-dies-at-81.html

6/21/2014  ​Kの初ニューヨークメモ・記憶補足のエピソードー

 

 Kにとって初のニューヨーク訪問、翌日だったか、「緊急」と大きく書いたアラナ・ヘイス宛ての資料を用意した。そして PS1に案内同行した。事務員にカタログとレターを同封した封筒を残しただけだった。翌日急遽、まさかの「部屋が一つ開いて いる、滞在中、作品を作れるか?」と電話が入り決まった展覧会だった。PS1での一年前の私の水と音の作品 を知っている アラナはオープニングでの会話「圭二の作品は既にヨーロッパで見ていて知っていて興味があった。だが、あの”EMERGENCY”の大タイトルが無かったら、今回は恐らく見落としチャンスを失っていただろう」と。

 

 翌日から早速作業開始。材木はリチャード・ノナスのスタジオ訪問したさい紹介をうけた材木屋に手配し、 ジャッキを キャナル街の雑貨屋さんに注文(日本製だった、私のスタジオに現存。来年の展示で使用する予定)。その間に河原温、篠原牛司男、川島武などに会い、359キャナルのスタジオでパーティーを開催、ゲーテハウスから幹部の方3人、作家のウル フー・カーレン、 ヨゼフ・アーベン、インゲ・マン、刀根康尚など50人ほどが集まりました。そしてインスタレーション無事終了。オープニング は(アラナはKの手を握って離さず)大盛況だった。

 

 展示終了後、作品は私が解体し359キャナルのスタジオに持ち運んだ(この359キャナルはフルクサス発祥の地、アイ・オー、ナムジュン・パイク、ディック・ヒギンズ、折元立身などが居住)その後、木材はブルックリンの現在のスタジ オに移動、いまは台所のロフト上階を支える柱に変容している。

 http://en.wikipedia.org/wiki/Fluxus

PS1、Room 203の作品はNOMAARTエディション見開きページに掲載。

(PS1 の展示写真は私の安物カメラで撮った)

モノ派 は有名で、日本人作家もっと出てもいいはずですが、緊張感を視覚化する圭二の来年の展示が楽しみ。K

小俣出美

美術史家

「どないやねん !」


   宇宙では、「質量」と「幽霊」も完全さのもとに還元され融合中和される、暴力や死にもまだ唯一、波動が影響するという基準が存在する。しかし、直接的に「日常の営み」への影響力をうけられない人々にとっては、例えば民族間の紛争による多数の犠牲者たちが苦しんでいることなどは彼らには認識され得ない。これらの紛争は、冷戦の終結以来、世界のすべての地域で発生している。それら苦しみの共有という現象が今日の日本にも存在することが見出されています。それでも、それは真の共有ではありません。

 ー自分自身の身体で他の人の痛みを体験したり、死の恐怖に直面して同じ感情を想像することを可能にする意識の共感ーこれは常に創造への第一歩ではなかったのではないでしょうか、コミュニティ・統合という?

  刈谷博が作品をアニメ化するのは確かにこの意識である。彼は黒いスレートの平板に世界で行使されている虐殺の現場の業の名称を刻み痕跡を残すのです。虐殺の業はそれらが報道記事になるということ、その記事が切り抜かれるという行為に於いて、既に癒やされているのかもしれません。しかし、刈谷は、自分のお経・経典として同時に書式で記録し残すことで、苦しみの重さを肉体的に実体験知覚する行為によって、この一連の実践を、今日、私たちの惑星を引き裂く苦痛を和らげるための祈りにしようとしてするのです。それは外界から「やって来ること」ようなものではなく「その現在の内にある」それらすべての持続の系であるから、不死なのである。

小俣出美

どないやねん展カタログ仏文→英文→和文

小俣出美 補稿

  メディア化された世界では、死や暴力は量と凄惨さという画像の受容ということでしか意味を持たない。例えば冷戦締結後に世界各地で起こっている民族主義紛争による大量死は、日常に”直接の”影響を受けない人々にあっては、痛みとして感受されない。しかし他者の痛みをみずからの身に感じ、死の恐怖に抗して思いを共有することが、共同体の創建への一歩ではなかったか。刈谷博の意識はそうした点にかかるだろう。小さな黒板に記された世界中の夥しい死の事例は、新聞の切り抜きである点で、すでにメディア化されたものだ。しかし彼はそれを、独自の経文とともに文字として書きつけるという行為により、痛みとして身に受け、その行為の連鎖を、現在の地球が抱えた苦悩を癒す祈りにしようとする。

未来のない(癒しきれない)「いま」が延々とそこにはつづいている。

   結局のところ、向こう側という表象または超越的な次元によることなく、時間の行方や死を想定することは出来るのだろうか。痛みや死について、一体、何を他者と共有できるのだろうか。集団的な生の内部に、辛いものや醜いものや苦しみというネガティヴな要素を客観的に認め受け容れていけるのだろうか。そのような問いからしか、おそらく出口は開かれることはないのだろう。

小俣出美

どないやねん展カタログ和文2p107

エリック・メディル

キュレーター、コレクションランバート

「どないやねん !」
 

 60年代に、河原温は彼の「デートペインティング」を発案した。それは二重の一時性と言う表現であった。彼の塗られた帆布は、壁に露出していると言う単純な事実によって、箱の中で休眠状態のままにするか、「再活性化」することができるのである。パッケージの底に、アーティストが書いた帆布を貼りつけた日に対応する新聞記事のカットを遺します。私たちが世界の出来事にいる間、抽象的な宇宙の時間がそこに存在したのです。

 刈谷博の方法は、これと逆のプロセスです。彼は経緯・いきさつを蓄積し、時にはタイトルだけを保持し、新聞の全世界のイベント・出来事をカット・切り抜き、これらの言葉を学校の黒板のスレートに貼り付けます。反転した側に、彼は白いチョークで小さな文章を書きますが、それは時間の経過とともに必然的に消えていくというものです。 「Now is the now is the now ...」この記述は彼のすべての作品の生涯のモチーフに用いられています。彼は長年ニューヨークに住むことを選び、他の移民人々と同じように、自国の問題だけに止まらず、島から島・国境から国境をはるかに超え世界を蝕んで行くすべてのドラマに懸念を抱いていきます。

 彼の作品をよりよく理解される確かな共感性について語るとすれば、彼の作品とは地球のすべての悪を受け入れ、引き受けているのだと思っています。彼が三月に設置したインスタレーションの精緻化とスレート板が積み重なっている劇場的な景観には、日本、神道、仏教の歴史的宗教への明らかな言及が存在します:山の寺院に通じる路地には、薄板に刻まれた、絵馬のような願かけ・祈りの蓄積があり、木の板またはカエデの枝に結び付けられた紙片・おみくじを連想させます。自国から離れた彼は、集められ蘇ってくる記憶に関わってくる、その二度とは振り返ることのないような想いに大きな意味を見出すのです。

 神戸は彼にとって二重のドラマでした。日本のシステム全体の崩壊と、この大惨事で忘れられていたさまざまなマイノリティに対する社会的結束の欠如です。したがって、時間の経過とともにスレート化する彼の経典によって、彼は自分の国の今日のドラマを、それらすべての役に立たない死、イスラエルとパレスチナの紛争、アフリカの政治犯、サラエボの破壊、またはオクラホマシティ爆撃…と、河原温と同様に、原則が逆になったとしても、アーティストは時間性とグローバル化された情報のアイデアそのものを相対化します。


(因みに河原温と刈谷博は最初の個展以前からの交友関係で、河原温の”I Met”シリーズに登場する)

エリック・メディル

どないやねん展カタログ仏→英→和 p152

1997

1997年

私はいまだ「The now is」経を書き続けている。

私はいまもそれについて考えつづけている。

1997年

北大路隆、刈谷博「1996年経」展評

予備知識のない人が午後にギャラリーを訪れたとして、黒板いっぱいに書かれた「The now is」という文字を読むことはできないだろうし、黒板の裏に貼られた1996年の新聞記事(ボスニア、ルワンダなどでの惨事に関する記事)の切り抜きから、漠然と未知の外国語だと理解するだろう。では、なぜこの黒板がここに置かれているのだろうか?もし私が彼に「これはサラエボの廃墟でしょうか?」と尋ねたら、彼はきっと「はい」とは答えないだろう。

 

つまり、ここに置かれた廃墟は、言葉を失わせるものなのだ。

「ここにあるものはただひとつ、それがすべてだ…それ以外に何も存在しない」(引用:刈谷博)

北大路隆、美術手帖 BT7/97 152ページ、1997年

1996

1996年  ひとつの幻想を数える

今ここにアイデアの種を蒔く

「…刈谷は乾燥した豆の両面に「the now is」経を、毎晩寝る前に約100個の豆種子に書き込みます…日々の思考のメモとともに…ニューヨーク州ブルックリンを拠点とする彼のオープンポエムは、最初は英語で書かれます。

一粒のブラフマーの日々

一粒の「the now is」

一粒の8,640,000,000年

一握の104粒

宮武美紀、ジャパンタイムズ、1996年5月1日

1996年  仮象タイトルと物語を読む=時の刻という

私は未だに「ニューヨーク・タイムズ」を読んでいる。

異なる日付、異なる名前、異なる場所、異なる印刷。

私は未だに「ニューヨーク・タイムズ」を読んでいる。

異なる言葉、異なる写真、異なる物語。

私は未だに「ニューヨーク・タイムズ」を読んでいる。

異なるタイトル、異なる時代、異なるひと殺し。

「1996年経典」(ニュースタイトルの経典)、紙にタイプ、1996年

 

言葉は「生み出され、存在し、世界が存在してきたように私たちの存在も存在する」だが差し当たり、私達はそれなしでも生きられる。

 

刈谷の「黒板経」の詳細を観察すれば、この作品に書かれた文字が新しく書かれたものではなく、何度も書いたり消したりを繰り返して重ねられたものであることがわかるでしょう。メディアとしての黒板。

白っぽい半透明の表面に書くことで、以前に書かれた文字を完全に消すことが難しくなります。このような黒板のイメージで、誰もが幼少期の学校生活の記憶を思い出すのではないでしょうか。 「黒板;10年後、チェルノブイリ」

アクリル、メゾナイト、チョーク、消しゴム、裏面にコラージュ、1996年

 

1996年

チェルノブイリ=日本語で蓬(よもぎ)

「黒板:10年後、チェルノブイリ」作品裏面

ギャラリーの床に入る…私の黒板…私の足で入る…私の手でチョークで人生を進める…

この人生に入る…私のチョークの書き込みを進める…私の足で出て、私の書き込みを消す…

私の光の粒子が物理性のホログラムを作り出すことで、すべては始まりも終わりもなく、ただ「今」である。

 

世界は黒板である。

私たちの足は消しゴム

私たちの手はチョーク

私たちは自分が築き、破壊する

 

刈谷博 100個の石 外側の円 各文字の上に100個

「∑ 139+89語」のチョーク書き、そして「種子経」の日常的な作品を配置

ミヅマアートギャラリー、東京、1996年

 

1996年 作ることは構築すること、創造すること、呼吸すること、動くこと

「仏教における構成理論としての「作る」という概念…彼の創造、そして視覚形態の破壊。それは概念から始まり、足と手を使って彼の体を通して働き、ギャラリーの床に信じられないほどの美しさの光景で終わる…彼の果てしない「今」の書き込み…」

鷲尾俊彦 公明新聞、1996年5月15日

 

1996年

「無数のチョークによる「今」の書き込みは、私たちを別の次元へと導く…螺旋状の書き込みに集中していると、すぐにギャラリー空間が形而上学的な場へと変容していくことに気づく…」 「普通のコンクリートの床から、古びた古代の花崗岩へと変わり、壁は視界から遠ざかっていく」

佐々木昭夫、『書道界』1996年7月号

 

ろうそくに光を灯し

その記述を読む

 

「the now is」が刻まれ

「the now is」を読まれ

「the now is」が照らし

「the now is」

 

ろうそくの文字を読む

ろうそくに刻まれた文字、1995年、写真:弘本秀樹

 

私はいまだ「the now is」を書いている

私はいまだ「the now is」を書いている

私はいまだ「the now is」を書いている

 

1996年

「ギャラリー」、週刊誌『ぴあ』4月30日号

 

1996年

鷲尾敏彦「仏教的な構成理論としての「作る」という概念…彼の創造、そして視覚的な形態の破壊。それは概念から始まり、手足を使って身体を通して表現され、ギャラリーの床に信じられないほどの美しさの光景で終わる…彼の果てしない「the now is」の文字…」

鷲尾敏彦、「公明新聞」5月15日

 

1996年

佐々木昭夫「無数のチョークで書かれた「the now is」の文字は、私たちを別の次元へと導く…螺旋状の文字に集中していると…やがてギャラリー空間が形而上学的な場へと変容していくことに気づく。普通のコンクリートの床から、古びた古代の花崗岩へと変わり、壁は視界から遠ざかっていく」

提髪明男、「書道界」7月号

 

1996年

宮武美紀「今ここにアイデアの種を植える…刈谷は乾燥した豆の両面に「the now is 経」を書き、毎晩寝る前に約100個の豆に書き込む…日々の思考のメモとともに…ニューヨーク州ブルックリンを拠点とする彼のオープンな詩は、最初は英語による記述。

一粒のブラウマの一日

「the now is」の一粒

8,640,000,000年が一粒

一握の104粒

宮武美紀、『ジャパンタイムズ』5月1日

1995

1995年

A.M. ウィーバー「ヒロシカリヤのインスタレーション

「自自分自身が己の主人でない者は自由ではない」は壮大なクライマックスである。彼の黒板に書かれた文字、コラージュ、そして包まれたオブジェは、牢獄のような囲いの中にひしめき合っている… 刈谷の作品は、牢獄という概念への認識に挑戦することで、鑑賞者を引き込もうとしている。ここでいう牢獄とは、自己、精神、システム、そして世界の状況のことである…」

A.M. ウィーバー、ペインテッド・ブライド・アートセンター、カタログエッセイ

 

1995年

刈谷博の「自らを律することのできない者は自由ではない」エピクテトス

は壮大なクライマックスである。彼の黒板に書かれた文字、コラージュ、そして包まれたオブジェは、牢獄のような囲いの中にひしめき合っている。

(刈谷の言葉:これは私たちの3次元の物理的な世界の縮図であり、私たちは囚人である)

それぞれのアイテム、素材、そして痕跡は、出来事、活動、公私、そして世界の状況といった複雑なマトリックスを暗に示している。「自らを律することのできない者は自由ではない」は、1993年に制作された作品の連続体である。時代の兆候、刈谷のインスタレーションは、まるで川のように、一つの作品から次の作品へと進化し、流れていく。彼の制作過程の不可欠な要素は、データを何層にも積み重ね、時間と空間に応じて拡張したり編集したりすることで、それぞれのプロジェクトを構築していくことである。

 

A. M. ウィーバー、フィラデルフィア、ペインテッド・ブライド・アートセンター キュレーター、1995年

 

1995年

「自分自身が主でない者は、自由ではない」

-エピクテトス-

インスタレーション・設定:

 

13 牢獄とは私たちの世界、

12 牢獄とは私たちの国家、

11 牢獄とは私たちの国境、

10 牢獄とは私たちの宗教、

9 牢獄とは私たちの階級制度、

8 牢獄とは私たちのシステム、

7 牢獄とは私たちのプログラム、

6 牢獄とは私たちの教室、

5 牢獄とは私たちの選択、

4 牢獄とは私たちの信念、

3 牢獄とは私たちの思考、

2 牢獄とは私たちの身体性、

1 牢獄とは私たちの意識、

 

「13体の包まれた人体が牢獄の中の床に横たわっている。その下には、多面体のチョークで書かれた文字で覆われた1000枚の黒板が敷き詰められている。それぞれの黒板には、社会ニュース記事の新聞の切り抜きがコラージュされ、あるいは消された跡が残っている。消しゴムと黒板はランダムに配置されている。」

***

*4つのインスタレーションの大型版は、1994年に茨城県水戸市のアートタワー水戸と東京都のミヅマアートギャラリーで「時代の兆候」というタイトルで展示された。

 

ペインテッド・ブライド・アートセンター、フィラデルフィア、ペンシルベニア州アメリカ

刈谷博、1995年、カタログエッセイ

 

1995年

鷲尾敏彦「刈谷は、出現したり消えたりするシンボルを通して「時間」を捉えようとしている。それらの出現がなければ、「時間」は静止した混沌の中にのみ存在する…しかし、何も存在しなければ、何の兆候も現れない…彼の「今とは」という言葉の意味は、並外れた次元へと広がっていく…」

鷲尾敏彦、『アートジャーナル』誌、7月号

 

1995年

呉沢綱「黒板経は、黒板、チョーク、消しゴムという要素を一体化したもの…私たちの世界の構成要素として…それぞれの黒板には、彼の「今とは」という経文が書かれたり消されたりしている。このフレーズは、「今」というあらゆる瞬間に向けられた指標であり…同時に、不確かな永遠の存在へと意味が広がっていく…」

暮沢綱己、『月刊美術誌BT』、9月号

 

1995年

中村秀樹「今日の精神構造の表象としての芸術」

中村秀樹、『月刊美術誌BT』、6月号

 

1995年

「…捨てられたものを使って「時間」を再構築する」

『月刊ギャラリー』誌、6月号

 

1995年

原田環「この作品は癒しの芸術である。彼の「今とは今とは…」という言葉は、私たちの心に深く響く。」

『月刊CAZ』、6月27日

 

1995年

山口泰司「雑誌ほどの大きさの小さな黒板が、まるで位牌のように…それぞれの黒板は金色の額縁に収められ、金色のチョーク置きに置かれている…表面には、彼の「今とは」という経文が書かれたり消されたりしている。」

山口泰司、『赤旗』新聞、6月23日

 

1995年

鷲尾敏彦「最初は衝撃的だったが、その後、静寂の瞬間が私を包み込んだ…彼は追悼の儀式を行っているのだ。黒板の表面に経文を刻み込むことで、あらゆる瞬間に捧げるモニュメントを制作している…」

鷲尾敏彦、『公明新聞』、6月23日

1994

1994年

「黒板への書き込みは、消されることを前提として存在する。すべて手書きで書かれたそれは、生命の存在を強調する。言葉は「生み出され、存在し、そして世界が存在してきたように、私たちの存在もまた存在する」。一度現れると、それらはすぐに消えてしまう。これらの作品は、黒板の前での書き手の手の動き、身体、声と深く結びついており、書くこととこの行為は一体となる。表面上、黒板への書き込みは「今」の存在を捉え、アーティストの声とパフォーマンスを明らかにする。

教室は、根本的で普遍的な真が明らかにされ、教師の人生経験のすべてが露わになる神秘的な場所である。

すでに述べたように、黒板への書き込みは消えてなくなるのではなく、消されてもなお、かすかな痕跡として残る。消すことによって、同時に新しい書き込みの背景が生まれる。このシステムは人間の生命と非常によく似ているのではないだろうか?人が死ぬと、その人のカルマとしての痕跡は全体と調和し、新しい生命の背景となる。

刈谷の作品における最も興味深いアイデアの一つは、写経という概念を黒板への書き込みに結びつけたことだと私は考えている。

写経では、書き手の人生が書かれた言葉によって紙の上に定着し、それは非常に長い間残る。刈谷はこのプロセスを紙から黒板へと移し、生命の瞬間的で刹那的な側面を示すことに成功した。黒板の書き込みは、まるで一つの大きな叫び声のように、現代の人類の集合的な「声」を表現している。この段階において、刈谷のインスタレーションは教室であると同時に、刑務所、兵舎、あるいは壁に落書きが残された廃墟のようでもある…。

倉林靖「時代の兆候」ミヅマアートギャラリー、カタログ

1994年

倉林靖「刈谷の作品は、それ自体で完結した意味を持つ、それ自体で完結した行為である…刈谷の作品は、『客観的に』見られる世界状況を提示するものではない。むしろ彼は、自身の存在を含めた世界全体を捉えようと努めている…」

倉林靖「オープンシステム」水戸芸術館、カタログ

1994年

渡辺誠一「…生命の終焉、国家体制やイデオロギーの終焉は、すべて終末感に影響されている…今日、多くの芸術家は、終焉の恐怖は避けられないと経験したり、主張したりしているのだろうか?…」

渡辺誠一「オープンシステム」水戸芸術館、カタログ

1994年

提髪明男「…彼の作品の表現は、彼の書、より具体的には、彼が単に『SUTRA』と名付けた経典の書写にある。塵から瓦礫まで、すべてを一つの有機的な生命体として結びつける糸…」

佐々木昭夫「書道会」雑誌、8月号

 

1994年

「インスタレーション…ギャラリーの壁と床に描かれたグリッド(座標軸)と、花、黒板、ろうそく、白い布の断片の配置…水戸芸術館のギャラリーの壁の作品に関連している…」

日経アート、雑誌、7月号

 

1994年

「衝撃的だった…刈谷の作品…100体の包まれた死体、倒れた少女とハゲタカが待っていた…真の美しさとは何かを私たちに問いかけた…」

ギャラリー、雑誌、7月号

 

1994年

「刈谷のライフワークのテーマ。『存在とは「この在いま現在」である』という書」

日経アート、雑誌、7月号

 

1994年

「オープンシステム '94 水戸アニュアル…」

アーティスト、雑誌、台北、6月号

 

1994年

小沼純一郎「力強く、説得力のある作品で、刈谷は歴史的証拠として、またその存在の証明として素材を提示する」

小沼純一、月刊美術誌BT、6月号

 

1994年

原田環「世界のあらゆる出来事は、『今』という時間の中で私たちと繋がっている」

1994年

原田環、CAZ誌、5月25日

1994年

「白い布に包まれた100体もの人体像、刈谷の『戦争』に対する痛烈なメッセージ…」

朝日新聞、5月12日

 

1994年

「インスタレーション、刈谷博の『迷路のある教室』は、現代社会を表現している」 アートタワー水戸、水戸アニュアル1994、今年は4名のアーティストが選出された。

NHKテレビ番組「日曜レビュー」、5月8日

 

1994年

「時代の兆候…ニューヨーク在住の彫刻家であり美術ジャーナリストでもある刈谷博は、ニュース記事や雑誌の記事から言葉を抜き出し、小さな黒板に書き記している。1083個の作品からなる彼のインスタレーションは、人生の出来事の滑稽なまでの繰り返しを強調している。」東京タイムアウト、5月号

 

1994年

開發千恵「人体像に多数の小さな黒板を貼り付け、日刊新聞の記事を書き込んでいる。一見、奇妙なシミュレーションアートのようだが、作品の細部に至るまで、彼のコンセプトである『経典』と関連している」

開發千恵、スタジオボイス、5月号

 

1994年

「94年水戸アニュアルにおける、開かれた精神としての表現」

CLIQUE誌、5月5日号

 

1994年

平林涼子「…アートをより高次のシステムへと導く」

平林涼子、エル・ジャポン誌、5月5日号

 

1994年

「彼の作品は、独自の「ジャーナリスティック・ペインティング、スカルプチャー」によって、時代の兆候を考察する」

芸術公論誌、5月号

1994年

原田環「オープンシステム・アート…経典の写経のように、彼は日刊新聞から最新の話題を取り上げ、廃棄された物に書き写す。そしてそれらを組み立て、最終的に壁に展示する。この表現は世界と人類への祈りのように見える」

毎日グラフ、週刊誌、4月17日

1994年

「作品で埋め尽くされた部屋には、「包帯の門」、「世界の壁(引き裂かれたボスニア)」、「トルコの窓」、「包まれた身体」、「血まみれの担架」、「砂袋の壁」などが床に置かれ、黒板に書かれた文字が壁に掛けられていた…」

茨城新聞、4月6日

 

1994年

「刈谷のパフォーマンス:100本の花束、キャンドルライト、チョークの文字…」

新茨城新聞、4月2日

 

1994年

「水戸アニュアル'94」

新茨城新聞、4月1日

 

1994年

プレビュー「閉ざされたアートは開かれるのか?」

アートニュース、日本、4月号

 

1994年

倉林靖「コンセプチュアル」

Prints 21、雑誌、冬号

 

1994年

四方幸子「オープンシステム」

ワールドアート、雑誌、秋号

1993年

「追悼1992」展、カタログ、スパークギャラリーII、4月

 

1993年

「ニューヨークからのファックス:釜石の終身雇用制度に関する記事がニューヨーク・タイムズ紙の一面に掲載…」

佐藤勝彦、河北新報、新聞、1993年5月12日

 

1993年

佐藤勝彦「刈谷は、捨てられた物を用いて貧困や戦争犠牲者を『使い古され、役に立たないもの』として表現している…限られた自然、資源、都市、そして人間に対して、私たちは何ができるのか…」

佐藤勝彦、釜石新報、新聞、1993年5月11日

 

1993年

刈谷博「お経ものがたり;9つのエピソード」

刈谷博、釜石新報、新聞、5月/6月

 

1993年

「…ニューヨーク・タイムズ紙の釜石に関する記事を『都市を資源として捉える』例として…私たちが都市や人間に対して行ってきたことは、消費そして放棄だった…過去の過ちのために…刈谷博からのファックス…」

佐藤勝彦、釜石新報、新聞、1993年5月4日

 

1993年

刈谷博「ここにあるものは一つ。それは有機物、時間、空間、出来事などすべてを含み、一つの単位となる…それ以外に存在するものは何もない。私の作品:その表現、活動、そして私たちの人生の形は同じ平面上にある」

日経イメージ気候予報、1993年5月

 

1993年

「1992年の追悼…」アート・ナウ・ジャパン、3月/4月1993年

「ギャラリー」、PIA、週刊誌、3月30日

 

1993年

「ジャーナリストの視点から、刈谷は今日の傷ついた世界、ソマリア、ボスニア、エイズなどを作品に表現する:ジャーナリスティックな彫刻/絵画」

朝日、週刊誌、3月12日

 

1993年

「1992年を偲んで、18体の包まれた遺体を含む…」

AERA、朝日新聞社発行週刊誌、1993年3月30日

 

1993年

「1992年:ジャーナリストとして、刈谷は『追悼1992』作品で私たちの世界の悲しみを表現する」

APO、隔週刊誌、1993年3月18日

 

1993年

佐藤勝彦「…私たちも近い将来、捨てられたものになるのだろうか?

捨てられたもの:かつては役に立ったが、今は役に立たない。私たちは生き、そして死ぬ…母親の死に触発され、刈谷は『追悼1992』展で今日の傷ついた世界の病と悲しみを表現する」

佐藤勝彦、釜石新報、新聞、1993年2月26日

 

1993年

415枚の黒板インスタレーション、415人のパレスチナ人

「土地よりも平和を」ラビン

「平和よりも土地を」アサド

刈谷博「追悼1992」、スパークギャラリーII、東京

1990

1990年

「ICA、刈谷博による数千の経典を展示」

Penn Life、ニュース、フィラデルフィア、1990年3月8日

 

「経典の墓」、ICAフィラデルフィア、1990年

 

1990年

「記憶:イリヤ・カバコフの壁」、ICAフィラデルフィア、1990年

 

1990年

「刈谷は、自身のインスタレーションをICAの過去の作品と結びつけることで、経典の原理を表現している。彼はイリヤ・カバコフの最近の展覧会で使用された壁を再利用し新たな壁を構築するプロセスをひとつの経にすべてを結び付ける…」

University City Review、週刊ニュース、フィラデルフィア、1990年3月2日

 

1990年

「1作品=1ドル札=1人につき=1回限り。10ドル、100ドル、1000ドル、1万ドル札は受け付けません。

刈谷博、カバコフの壁の断片800個」、ICAフィラデルフィア、1990年

 

1990年

「8000年の春、8000年の秋」、ICAフィラデルフィア、1990年

 

1990年

エドワード・J・ソザンスキー

「熟考、創造、再生…それは観察者に、静謐さの状態に導き、より高い意識を刺激しようとする…傑出した客観性からは程遠い…インスタレーションは不滅性に関する長時間の瞑想行為を表している…それを作る過程は、それが生み出す人工物より更に重要である。実際、それが本質である…宇宙的な統一との交わりを求める探求。」

エドワード・J・ソザンスキー、フィラデルフィア・インクワイアラー新聞、3月18日

 

1990年

ロビン・ライス「まだ息をしている、まだ考えている…刈谷の作品は…記録されている『秩序づけ』の活動であり、その活動自体が精神的な目的である。」

ロビン・ライス、フィラデルフィア・シティ・ペーパー、新聞、1990年6月22日

 

1990年

スートラ

ひとつのものがすべて全てのうちに、全てのものがひとつの内に

1990年

イハラ・ルーデンスギャラリー、New York

易経:八千年の春、八千年の秋

時間と期間の法典

私はこの人生に生まれ落ちた。

私は変化の卦。

緑は春、赤は夏、紫は秋を表す。

6インチは6時間、12インチは12時間、

変化の易の卦による自然と他然の混合存在記録。

日に複数の卦を出した時は、寸法が小さくなる。

混合描法、木材にアクリリック剤、最大24x16インチ。

作品は壁に6列に積み重ねられている。積み重ねられた作品の高さは多様、ほとんどの木材は緑(春)または赤と紫(秋)に着色されている。それぞれの作品には、刈谷の「the now is」経文字が刻まれている。

壁面に並べられた作品の視覚効果は、抽象的な写本やカレンダーのようである。過ぎ去った時間の記録として認識されるだけでなく、言語のリズミカルなリズムも暗示している。経文は抽象的で、アラビア語やペルシア語に漠然と似ているため、比喩的な表現をしていますが、その呪文的な目的は明確である。

エドワード・J・ソザンスキー著『フィラデルフィア・インクワイアラー』

1990年3月18日号、ICAフィラデルフィア、1990年

制作途上の時間帯、時間、制作時間を木片に易の卦によって暗号符号寸法を改変し表裏、記述などのコンビネーションにより記録。一日24時間に分割。

日に複数の卦が出た時は、寸法が小さくなる。数列のコンビネーションとの混合描法。木材にアクリリック剤。最大24x16インチ。

サンスクリット語; 意図、いと、糸、紐、系、本、綴じ紐。

  神聖な、コード、符号、暗号、測り定める線、数列、列。

1989

1989年

「始まりと終わり」湾曲したスタンプ、インク、中心のスタンプを指し示す振り子、Exit Art、1989年

 

1989年

「易経の偶然の卦、選択、偶然、変化、季節、期間、象徴」

 

1989年

「イメージ、タイトル、言葉」

 

1989年

杉浦邦恵「この作品のタイトルは『経典』です。このタイトルは存在の意味を探求することを指し、無限の概念に関する研究です。」

杉浦邦恵、BT、月刊美術誌、7月号

 

1989年

経典:語源はサンスクリット語。文字通りの意味は糸、紐、聖なる紐、測定線、スケッチ、計画。

この作品は、刈谷の高次の自己からのテレパシーによるメッセージであり、一つのフレーズで書かれています。最もシンプルな形に符号化されています。存在の有限な概念に焦点を当て、存在の無限の現実を想起させます。時間、空間、物質の障壁を打ち破り、普遍的な一体性のための無限の孤立した瞬間を明らかにします。

言語形式にもかかわらず、この文章は純粋な抽象的な意識を明らかにします。それは、現在に直結する時間/空間/物質の独立した意識に内在するものです。すべては同じ「今」に起こっていますが、解釈のレベル、周波数、次元が異なります。私たちは皆、愛という普遍的な悟りのための学習過程にあるからです。人間を支配するために捏造された恐怖の要素ではありません。

 

1989年

この作品は3つの機能の複合体です。

(1) 文章を生成力として肯定すること。

(2) 文章を測定するための*定規を作成すること。

(3) 表面上、経典の形を想起させること。

*象徴的な形を測定または記述するための言語的な詩。

これは、文章ではなく、定規、構造、素材、システムによって行うことができます。

1989年

3  今からすべてが始まる

今の内にすべてが存在する

そしてすべては今に循環する

2  これが今、あれも今

今から今が生まれた

今はずっと変わらない

今から今を引いても

結果は今となる

4  今ここにいる

今あそこにいる

近くにも遠くにもある

このすべての中にあり

このすべての外にもある

すべての存在は今の内にあり

今がすべての存在の内にある

1  「今とは何?」

「今はいずこから来たの?」

「今はいずこへ行くの?」

5  今はこのすべてである

 

刈谷博、ウパニシャッドのテキストからの再創造、1989年

1982

1988年

「ひとつの石の経」 石灰岩に彫刻、1988年

 

1982年

「34の言葉の内に一つのもの:一つのフレーズの内に34の言葉:34の変化の内に一つのフレーズ」

流​​木にアクリル絵具、1982年

 

1982年

「1つのフレーズの内に29の言葉:29のものの内に1つのフレーズ:1つの作品の内に29のもの」

流木にアクリル絵具、1982年

 

1982年

「一つのものの内に83の言葉:83回の中に一つのもの:一つの経典の内に83回」

流木にアクリル絵具、1982年

私は今も「今とは何か」を書き続けている

私は今もそれについて考えている。

 

1982年

「34の言葉の内に一つのもの:一つのフレーズの内に34の言葉:34の変化の内に一つのフレーズ」

流​​木にアクリル絵具、1982年

 

「1つのフレーズの内に29の言葉:29のものの内に1つのフレーズ:1つの作品の内に29のもの」

流木にアクリル絵具、1982年

 

「一つのものの内に83の言葉:83回の内に一つのもの:一つの経典の内に83回」

流木にアクリル絵具、1982年

1981

1981年

「水の音の楽器」、ゴワナス・メモリアル・アート・ヤード、1981年

 

1981年

ジョン・シェル「街の話題になっている…それは『その』音と呼ばれている」と「音は時間性の意味であり、時間を体験すること、『そのいま現在』が音なのです…」と彼は指を用いて私たちに語った…

ジョン・シェル、ザ・ニューヨーカー誌、7月27日

 

1981年

ジョン・ペロー「巨大なスタジオ、彼の『その』音のパフォーマンス。この水槽、音の楽器は、私がこれまで目にした中で最も視覚的なものだった。」

ジョン・ペロー、ザ・ソーホー・ニュース紙、5月27日

1979

1979年

ケイ・ラールソン

それは「プールを作り、水滴が中央にポタポタと落ちる音を増幅させる

それは瞑想的な作品だった。鑑賞者はポタポタという音に注意を集中し、その音が水滴のイメージから切り離されているように感じ取ることを求められているようである。…このような作品の雰囲気に浸るのは、年が重なる錯覚に襲われそうで耐えきれなくなっていく。」

ケイ・ラーソン、ボイス(週刊新聞)、10月2日

1979年

「瞑想」、PS1美術館、1979年(水槽、音、光)

1977

1977

「the now is」経

1977

234画で一つの言葉。

一つの作品に234画。

234日で一つの作品。

一つの意味に234日。

234の場所に一つの意味。

一つのものに234の場所。

234の変化に一つのもの。

一つの思考に234の変化。

「the now is」の記述、紙にタイプ、1977年、

所蔵:ミヅマアートギャラリー

作品をそのままに

「変化なし、機会なし、選択なし、ここではない、あそこでもない、進歩なし。始まりもなく終わりもなく、有限でも無限でもなく、これでもなく、あれでもなく、ただ「the now is」文字の状態

「静止」、タイプライターによる「the now is」の記述

ガラスケース収納、1977年、構造は破壊。

石に書かれた「the now is」の文字、石灰岩にインク、

中心に穴貫通、1991年、個人蔵、日本

「筆が石の世界を旅する、書かれた文字。

北極から赤道を経て南極へ。」

1) 文字はランダムな地点から始まり、

左から右へと幾何学的に進み、

螺旋状の線を描く。

文字は石の端で限界に達する。

 

2) 石を回転させることで、文字は続く。

♾️形が方向を導く。

 

3) 文字は終わる。偶然の地点が発見された。

この石に書かれた文字の結果:

枢軸が獲得される

 

4) 石の軸を貫通する:始まりと終わり、表と裏、

他の石の作品と紐で繋ぐ

「数珠経」となる。

 

私はいまだ、一握にブラフマーの日々を数えている、

一粒から始める。

 

私はいまだ、一握にブラフマーの日々を書いている、

いまだ一粒から始める。

1977

「そのいまである」

「このいまである」

「あのいまである」

「その在である」

「この在である」

「あの在である」

1977

「The」

「Now」

「Is」

1977

「焦点を合わせるための指標」

意識、点、何に焦点を合わせるのか?

「現象」

イメージ、ビジョン、思考、メッセージ、

何を見るのか?誰が見るのか?

何を感じるのか?誰が感じるのか?

誰が感じるのか?何が感じるのか?

「存在」

それは、存在存在存在、連続性?

「存在」

それは、個、全体?

「存在」

それは、系、同時性?

「存在」

それは、認識、意識、無意識?

1977

「今である」

「我は我である」

「それはそれである」

 

1977

「       」

「ビジョン」

「感覚」

「幻想」

「現実?それは消えるが、目を閉じると現れる」

 

1977

「is-be」

4/8/1977

飛行機は、まもなくJFKに降り立つ。

薄ぼんやりの空から下界を見下ろしていた。

それは空からやってきた。

空を見ていたのではない。

空虚さえも見ていない。

何を見ていたのか?

何も語らない、何も現さない、

だが、そこにすべてがある。

それは自らという意を所有しない。

意を所有しないから、イメージ、図も所有しない、

その分別識、一切を所有しない。

その意を如何に説明しようか、

説明などできない。

こちら側のという謀以外には。

その「起」が、存在の本質なのかもしれない。

それを説明をせよという夢うつつが、作品の「因」。

ただ出来ることを記述する。

意で来ることを記述する。

出来ることを記述する。

その。

それが見えるということ。

それが存在である、ということ。

誰が指差し、誰が見せ、誰が存在させ、

誰が指さされ、誰が見、誰が存在しているのか、

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先ず

が与えられたとせよ。

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先ず

①その:指差すこと

②見えるということ:現象

③存在であるということ:存在

が与えられたとせよ。

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①その②が③であるとは

②見えるということ

③​存在であるということ①その②見えるということ

これら三つそれぞれが

「③、②、①」

独立するも、それぞれの意味の補完なしにそれは

?→②「→①→③→②」

②として目に見えるものにはなり得ず、

また見えたとしても、

?③→「②→①→③」

③存在という無限の働き無くしては

存在にはなり得ない。

?→①「③→②→①

①然もそれは、指さされることによって

見えるものとなり得るのである。

この波動を観える物として示すは三文字の記述に在り

③→「②→①→③」→②「→①→③→②」→①「③→②→①

「is the now」経三位一体①

「the now is」経三位一体②

now is the」経三位一体③

これら三文字は世界万物と同時の意図を表すのである。

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