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Let Seed Speaks

It's All About The One Piece, And Millions of Others

Armory 2019

1997

1996

1995

1994

1993

Mizuma Art Gallery, Tokyo

Private Collection, Canada

Takahashi Collection, Japan

Takahashi Collection, Japan

 

ABOUT

It's All About The One Piece

Hiroshi Kariya, born in Japan, is a New York based Sculptor and Meditation Creative. His diverse and playful artistic practice, which includes sculpture, painting and installation, explores the conceptual aesthetic of objects through random encounters of materials, re-assembled situations and spatial relationships.

 

Kariya's art is based on the composition of "Sutra", sanskrit; meaning literally thread or string (to bind the pages of book), sacred code or measuring line.

Kariya composed his Sutra, with three words "the now is”, his signature tool, the key element that expresses a link whole universe; events, object, bits and pieces, and people, simultaneously.

And these words are written millions of times on the works. Writings of three words, they convey a sense of immediacy and the present tense, in which Kariya experiences the creation of each work.

It is to investigate the roots of code between the illusion, and its reality through his component of work.

It is, maybe, for us to wonder "the" now is, the "now" is, the now "is".

....

This work “Seed Sutra,” presented in this exhibition, is comprised of numerous small fragments - specks - of seeds that the artist has marked his signature “the now is” writings, daily. Kariya began working on this series in 1984 and has continued production on it ever since, with many interim pauses. The total work is believed to now amount of 1,051,188 pieces, as of 12/31/2018.


Kariya’s sutra transcriptions are not a work attempting to confirm the exact instant of the “now,” rather, they are the embodiment of the fact that within this “now” the endless circle of things in flux through birth, death, and rebirth, continues eternally.
His works, which may be said to be themselves like prayers, are fervently resonant for we who live in a world in which we can never know what tomorrow brings. For Kariya, a prayer is “the equilibrium of an endless quantity of all things unevenly distributed; the equilibrium of a single universe.”

Witness the internal universe of Kariya, whose work, after 21 years, hereby returns to Mizuma Art Gallery.

 

Kariya has exhibited early year at the MOMA PS1 "Sound Show, special project: Meditation" 1979. Exit Art "Sutra", 1989. ICA Philadelphia "Sutra: One thing in everything: everything in one thing", 1990, then follows various other museums and galleries.

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ABOUT

「ひとつの/無数に遍在する/それ」

刈谷は、1977年の渡米以来「the now is」を多種多様な媒体に記述する作品を制作している。一日一握りの種子(豆粒)に「the now is」という三位一体の言葉を書き込んでいくという今回の作品「種子経」は、1984年から制作が開始され、途中で何度か中断しながらも続けられてきた。

 注:種子への記述は2018年12月31日現在1,0510,188粒。

彼独自の経である「the now is」という言葉について刈谷は「the now is」とは「be here now」という有限のそれではない、と断言します。

「the now is」とは「the–now–is–be」つまり「不死の存在とは」と連続してつづく言葉のイリュージョン、その普遍・不変の表現である。時空を超えた、われわれの心の在に発し、常にそこにい続けている境地を思い出すための、と。

 

朝、目がさめると「それ」が起ってくる、生をまた「繰り返し」「楽しめ」なの「である」。「生」その繰り返しが写経なのです。私には「その現在なり」がイリュージョンなのです。「だが、しかし、そうではない」を繰り返し、お経「the now is」の物性世界を「楽しめや」というメッセージなのです。

目を覚まし、息(生き)始めたらその波動を楽しもう、という。

 

刈谷の写経は、刹那としての「今」を確認する作業ではなく、「今」とは「在」いま、輪廻転生を超えた意識、その体験の実践だと云います。自己の存在を意識し感謝する、外の世界と内の意識との統合を祈り刻む、ともいえる彼の作品は、明日何が起こるかわからない外側の世界で生きる私たちに、安堵感を持って響くのではないでしょうか。刈谷にとって祈りとは、「無数に偏在することごとくの、そしてひとつの、宇宙の*バランス=統合」だと言います。

*「和」、共鳴波動の体験。

*作家注釈4/2018 東京アートビート

 

It Is All About The One Piece,

And Millions of Others

「ひとつの/無数に遍在する/それ」


今回の作品のテーマは作品を透明な概念に見立てて設定されている。媒体は透明板で裏側がある。裏側は面に対するものとしては定着されていない、差し替えが可能な状況という設定で普遍性をイリュージョン化する装置である…

人間はアプリオリ(与えられた固定概念情報=先入観)によってモノを見るという習性が刻まれている。そのアプリオリを背景に、そこに見るイリュージョンが現実である。真実であると信じ込む=見なす(それが表面として読み取られる)のであろう。信じ込みが現実化する仕組みである。

作品はその見え方の習性という裏側を、透明板の後ろに配置する。表面は実は、変化しないもの、それ以外のコトを含まない面であるはずなのだが、そうは見えては来ないはずだ。透けてみえる裏側に制作手順の垢「時の刻」が配してあるからだ、観客は表面を構成する背景を頼りに面の表「おもて」を読み取るのである。表面性の成立である。真実はその裏側の設定に依存されている。だがその仕組みに気付かされず、見え方の表面を真実と読ませられるのである。

作品は、実はこのからくり、観客自身のアプリオリの存在前提を問いかける装置という構造を提示しているのである。それが実は表面なのである。

だから?しかし、はてさて、これが、アプリオリになるとして、それは、読まれる必要を求めているものでもない。もっぱらが、それは作家も含む観察者の勝手、自由なのだ、という果てしなく透明な風景なのである。

今作品は「種子経」シリーズの流れから写経のあり方を制作のモチーフとして採用された。
制作上のプロセスでは作品はひとつの製作作業の原風景という場である。
ひとつひとつの作品は即興的な方法で制作され感性を伴なう生活行為の抽象表現による生の写し画である。部分的に不完全なイメージのソレは全体に無くてはならない機能であり作家個人の絶対不可欠な生態であるとして採用される。平たく言えばぶっつけ本番の思いつきの痕跡による素描である。過ち、ヤリ直し、修正、くり返しといった絵画のシミに観客は出会うのである。ソレらは近づいて業を凝らして見えるものについてである。であるが全体から展望するひとつひとつの作品断片は単なる絵画のシミ、滴りとして見られることになる。

 

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インスタレーション
 

画廊入り口


作品「種子経」
作品の入り口は手の平を目一杯拡げた四角な透明板に貼られた点画のような平面から始まる。(3〜6点の1999年代初期の頃の顔経作品)

その一点に近づきよく見ると透明板に文字が書かれ模様のようにも見える豆粒の群が、透けた裏側に何やら文字がビッシリ刻まれた壁画らしきイメージを背景に浮いているような、という趣である。
同じような文字が書かれた種または豆粒のようなものは直接透明板に貼られている。その裏側は透明板を挟んで透けて見える。
関連性がありそうでなさそうな背景は差し替えができるのかもしれない?何にでも置き換えができる?と、ふと、謎る仕掛けのようもである。
……………………………………


*入り口脇には大画面横長に引き伸ばされた写真記事を元にしたバナーが展示してある。アフガニスタンの相次ぐ米軍の爆撃で殺された遺体を前にチャリカー村民たちが、お祈りをしている写真映像である。バナー横には透明容器に収まったその元記事の作品が配置されている。そして顔が切り取られ、数字が施された作品は画廊の横壁に配列された「顔経」のイメージへと誘っている。
 


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インスタレーション


横壁面の群を左手に向かう正面に整然と均一に統一された点画のような画面が飛び込んでくる。
 

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左側の壁、通路を挟んで右側の壁


先ず左横の壁面には同間隔で縦に十列、横に三列、豆粒大・中・小のサイズが入り混じる顔が乗った透明板の点画が並んでいる。これらは観客自身が知った顔探しの衝動を覚えることから始まるかも知れない。そして、彼らの表情や向き、目の方向や配置に物語を走らすかも知れない。それらは、継ぎ足されたペーパータオルのような、浮き出しの紙に、穴が空いてたり、豆粒大の型取り、文字、記号、矢印、数字などが入った裏側が背景として設定されている。

もう一つの部屋に向かう相対する壁には、穴の空いた板状のものが交互に縦に並んでいる。その穴は向こう側のイメージを通している。それらの穴の見え方は、もう一つの小さな窓のようにも見えてくるかも知れない。その為の穴なのか、点滅するモノクロ的色彩や謎のイメージが混在するのである。謎に答えるのは観客の潜在性・アプリオリに基づくイリュージョン、さもなくば意味ありげな単なる穴あきの画像、いやそれだけではなさそうだ、とでも?笑。

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正面に相対する壁

正面相対する壁に68枚の大小異なる折り重なった透明板の上にうねりくねった途切れ途切れの点線をイメージさせる一本の連続する線が飛び込んでくる。
まるで神代文字の「いろは」に似たうねりである。よく見るとそれらは、例の種子の群である。部分のそれは、特定のルールで配置されたり、バラバラ、くっつけたり、構築的だったりの表情である。
薄く透明な膜の背後に、トレーシングペーパーのドローイングが透けて見えている。部分でみるこれらは相対する壁の80点の点描画のスケールを変えたズームアップでもあり、そしてまた、それらのひとまとめにも見えてくる。
白で消されたり、書き加えや書き直し、番号などがそのまんまという形で残されている。種子が置かれた透明板も、部分的にリサイクルのプラスチックを用いた風である。これらの(落書きとみても不思議はない)シミ、そばかすのような痕跡そのままは、制作作業現場の注意書き、支持表示や個人的メモの類の「裏方のもの」である。
これらは普通は表には出さないし隠したり、隠されるものである。
子供が土足で清められた場を無邪気に走り抜けるような現実的な無作法をのぞかせるこの手法は…何を語るのだろうか。もっぱらが、表には出ない、顧みられることのない言葉やその時限りの線や矢印、丸囲いたちへの打ち捨てられる見えない存在霊への鎮魂なのだろうか…。*「これらは、世界という均衡への返還なのである。宇宙のバランスから始まったのであるから、そこに戻す行為なのである。」*作家

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正面の壁


そして正面の壁
横に8列、縦に10列並べられたその一点一点はシリーズとして連続しているように見える。遠くから見ると図像のドローイングのようにも見え、近づくと盲目の人が読む点字にも見える。もっと近づくと、ソレらの種子は様々な法則で置かれていたり、数えることが目的の線であったり、順番の修正、統計、丸囲いに四角、重なり、矢じるし、数字、記号やらが、自由奔放に、そして文字が書かれた種子が引っ付いている。透明な表面の裏側に幾何学的な図形とか、デタラメな図形、素描のなぐり書き、図面のようなもの、メモ、およそあらゆる可能な裏地が透けて見えるのだ。だが、ソレらは表面の透明な板を挟んで置かれているという状況である。裏側は何にでも変えられそうで、裏側が無ければ透けた壁の色、その構造を示すかのような設定が相対する壁に見つかるのである。だが、それらさえもが一つの側面としての見え方なのであろう。穴さえもが概念であるかのごとくの暗示を提示するイリュージョンである。

 

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小さな部屋の壁


そして小さな部屋の壁
メインギャラリーの間を通過して左手の部屋。ここには三方の壁一列に、大小異なるサイズのキャンバスに規則正しく貼られた顔の点画(種子経の一部として連続している)作品が並んでいる。
この作品は先ず、第一に自分が知った顔を探すという行為に気付かされだろう、居るいる、これ知っている、あれこれ誰だっけ、という具合に。だが、コレを見ながらつくづく思うに、種子経にもそれぞれの表情があるように、そして文字が顔にさえ見えてきそうな錯覚を覚えるであろう、これと逆に整然と並べられた顔の連続がお経にさえ見えて来るかも知れない。顔は歴史を語る経文である。これらは文字なのである。これらは一期一絵の「書」なのである。それらを解読せよ。そして楽しんでくれと語る、経文なのかもしれない。

 

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茶室の部屋


茶室の部屋。作品の写真ファイルとビデオスクリーン。制作の途上、作品ディテールなどが閲覧出来る場。
 

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作品の骨子

 

この世に無駄なモノ、役に立たないモノ、間違ったモノなど存在しない。

チリ・ゴミと呼ばれるモノは、価値・名誉・崇高などと名指されるものと同等であり、無くてはならない絶対のモノである。だからソレは存在するのである。それらが在るということが、存在の系の要として不可欠だからであり、存在の異なった側面の現れとして、それぞれがそれぞれを補完し合う存在の機能として在るからである。不要なモノであるなら何故存在するのか。


この三次元下でのソレは形あるモノだけではない。思いも、感情も、勘違い、錯覚でさえもが三次元下でのモノである。これら諸々の三次元下での機能すべてを私は「在」いまと呼ぶ。だから困ったことに、そういった「存在価値のないと呼ばれる」モノが捨てられないのである。小さな気がかりチリが「唯一絶対」の部品なのである。今回の作品は、それら通りすがり、矢印や、間違いや、試行錯誤、誤りの跡、そのままを裏方に配したのである。透明の狭間から、かすかに見えるように。何故そうなのかを考えていただくために。

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作品の基本は「経」または「スートラ」、という綴じ紐の概念である。

この三次元世界=現象世界の有り様を個人の生活を端りとし、思うがごとくのことごとくを一本の紐にたぐりよせ考察しようという試みである。この現象世界の構造を表現する概念、刈谷の「経文」の源は旧約聖書でモーゼが神の名を尋ねた「今在し、昔在し、後在し」をヒントとし仏典の「ナモアモダボ」と言う言意が臨死体験と瞑想のはざまを経て「the now is」という三文字に出逢うに至った。この経文の分析と、記述を施す媒体との間に生まれる物性との関係、構造、制作上のプロセスそのままを実践しながら生まれ出るモノを作品とする、その創造行為の記録である。

記述する経文「the now is」という三文字が連なるゆえ初頭は「一句蓮経」と呼んでいた。実践行為は1977年の渡米の機上、英語圏で始め通常英語を用いている。以外にはドイツ語圏とフランス語圏で用いた直訳文が用意されている。和訳では「是現在即」、「是現在」「是今即現在」、「是在即」とメディウムにより変化し多様で、原則として定めていない。筆記用具は筆、ボールペン、鉛筆、鋭利なモノ、ディジタルペンなど記述可能なもの全てを用いている。

作品とはこの三文字をいつ、どこで、何に、どの方法で行ったか、如何なる縁に寄るのか、などのモノとの出逢い関わりが制作手法に反映する。そのものの有りさまと制作の手法とが現在一致、同化が目的である。作品とは従って、その時の背景を伴った記述行為の記録であり、その生き様を描く写生であり、文字を概念的に用いている関係から写経である、となる。

この概念と行為の特徴はそのツールの三文字「the now is」が付され蓮らなり甚大な量の記述の山が陳列される形相にあっても、記述されていることはたったひとつ「the now is」の三文字からなる「ひとつの詩」である、と遊ぶ。

 

「経」という語を採った意味は普遍性を呼び起こし、連続するも、繋がるも、元から発し元に戻る、ひとつにする、一箇所に手繰り寄せる、閉じる、派生する、源、ひとつを思い出すなどの意味を孕んでいるからである。

この三文字のお経を幾多の方法やメディアで展開、その偏在性のイリュージョンを景観し問答し検証するのが目的である。

「ひとつの/無数に偏在する/それ」

「ひとつの/幾多に偏在する/それ」

「ひとつの/全てに偏在する/それ」

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補足


作品「種子経」写経

作品は1つの枠の中に収まっている。作品の寸法は作家の手のひらの寸法に合わしてある。作品はこの三次元の有限性基準値を表す「計り」である。一握分の数量=約100粒が限定範囲の寸法である。今作品「植種経」は二段階目の作である。まず初段階、種子への記述は一日の内に制作される、後に任意に選ばれた作品が「植種経」として20センチ四方の透明な板に貼られる。これが、新たに一日の内に制作された今回展示の作品である。新たに種を蒔く、植える、また始まる、つづくというビジョンを誘導する「植種経」と呼んでいる。


この「植種経」は当初、過去の種子経作品の保存が目的で始まった。それに伴いオリジナルの写真記録などのイメージに沿った状態の再現が始まった。その途上に種子一粒一粒のアイデンティティ合わせの整理段階で顔経作品が関連して生まれた。当時、種子経の裏面として顔以外の数字又は任意のイメージらが並行して産まれてもいたからである。作品は既存作品を元とする更なる現在の記録である、という意味の重なりを経て写経作品であるに至った。

制作のプロセスは人生であり、生きることの一歩一歩、一句一句と連なる写経である。イメージの出典は夢、瞑想、記憶、過去のドローイング、ついにはその日の生活の動き思考、ハートとの統合、その意図を表すに発展していった。

小さな画面は作家の手の平で種子が生きて活動する場・領域である。近づき目を凝らしてみれば、試行錯誤、しがらみ、迷いデタラメなどが混在する画面、作家の抽象的な生き様の素描そのものである。
作品の裏側は取り替えが可能である。常に気変わりし続ける作家とこの世界を反映しその裏側を覗かせる。透明が基本である、がそれが真実とは限らないのである。真実は時に居場所や名前を変えるからである。作品はソレ以外のものと共存し、ナゼそうなのかの疑問と思考を勝手気ままに促すのである。

作品は作家自身の波動を軽くする実践である。作品の並べ替えは自由で常に変化し展示は如何様にも可能である。自由とは無限のことである。すべてに、ひとつに、疑問を投げ、忘れ、思い出し、一歩下がり、移り変わりを楽しむ映画の観客の位置を眺め、その設定を楽しみ、居眠りしてもいいのである。

ーーーーーーーーー
作品は二重構造を備え裏側という、イリュージョンの前提=バックグラウンド存在を設定する。それは差し替えが効く。見えるものは見えかた次第でいくらでも変わる、変えられる、操作される。ものの見させられ方、バックグラウンドの洗脳に惑わされるな、といいイリュージョンの雲中に引き込もうとするのである。そしてビジョンを得るのは、むしろすべての展示が終わった後、その帰り道にボンヤリと、さもなくば、あなたが眠っている間の「在・いま」にやって来るのかもしれない。

 

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言葉遊び


⭕️"ひとつとは一つという数字のことではない①(とする)

      ひとつの「それ」は複数で偏在する"。②(と生る)

⭕️数字はこの三次元世界下で情報共有を目的とした約束事=方便である。

③(言葉とは便利なものである)だから④(と生り)⑤(とくる)
⭕️"それだけではない、ひとつは此処、彼処に偏在する"
⭕️"もっとある、ひとつはコレ、アレ、ソレに偏在する"
⭕️”もっともっとある、ひとつはコノいますべてに偏在する”
⭕️”ひとつとはコノ在いまである”
⭕️”コノいまである”とは
⭕️”ひとつの在いまである”
⭕️⑥(と生る)
⭕️”The now is”の記述がある限り作品は完成しない。
⭕️”The now is”作品は完成しない。
⭕️”The now is”の記述の如何なる部分も、全体に組み込まれるようにできている。だから、それ自体の未完成から逃れられる。だから、作品は完成しない。
️⭕️”The now is”を想像すること、意識すること、読むこと、思うこと、などがふと、在る限り、世界は完成しない。

⭕️だから、それを楽しむ。


⭕️そして、ひとつとはあなたである。

⭕️という方便が可能となる、

⭕️であるから、
⭕️"あなたはひとりではない、あなたは複数で偏在する"
⭕️"それだけではない、あなたは此処、彼処に偏在する"
⭕️"もっとある、あなたはコレ、アレ、ソレに偏在する"
⭕️”もっともっとある、あなたはコノいますべてに偏在する”
⭕️”あなたはコノ在いまである”
⭕️”コノいまである”とは
⭕️”あなたの在いまである”
⭕️となる、
⭕️であるから世界は完成しない、完成しないから持続する。

⭕️だから、その生は楽しむがいい。

(33回目の添削)

Face Sutra 1/2001

Medium: News Article Collage on California Small Beans, UV protected, Vinyl Resin, Scotch Tape, Paper Towel, Pen Ink, Plastics. 8"x8"x0.75"(202mmx202mmx20mm) Private Collection, Canada